2018年10月23日
11月 ソラテラのお知らせ
11月のソラテラは、「障子張りをやろう!」です。
障子のある家は、今は少ないと思うし
障子張りをやる機会もあまりないのではないかな??
そんなわけで、今回のソラテラはみんなで障子張りをやりたいと思います

そんな私も、障子張りは小さいころ、実家のお手伝いをした程度・・・
張る、というよりも古い障子を「アタタタタタタ」、と破く専門でした。
障子張りは、寒い思い出です。
お正月を迎えるために大掃除のひとつとして、
年末に家族みんなで張り替えていたのかなぁと今ではいい思い出ですが、
当時は寒かった記憶しかありません
それでも、障子を替えると部屋の中が明るくなったのを覚えています。
日本の家は障子の文化があって、最近では外国人に評価されているとか。
太陽や月、自然の明かりが部屋に差し込んで、しかもそれが直接光ではなく、
間接光で趣があって良いと。
障子の中にガラス窓がはめ込まれていて、外の景色も見れて開け閉めできるものや、月見窓、雪見窓など、名前も素敵です。
夏には、和紙ではなく、葦や竹などでできた障子(というのか分かりませんが)に変えて、夏の暑さや日差しを遮り、風通しの良い、夏障子を使っていたそうです。
障子ひとつとっても、日本の季節感、文化の香りがしますね

さて、そこで、障子だらけのお寺。
今は、和紙ではなくプラスチックなどの破れない障子紙なるものが
色々と出ているそうなんですが、ここはやっぱり、和紙でしょ!
ぐるりと、障子に囲まれたお部屋、どれだけ明るくなるか??
ぜひ、一緒に障子張りしてみませんか??
もちろん、破るのも、みんなで!
***********************
■日時 11月10日(土)10:00~
■会費 無料 お昼付き
■場所 玉泉寺 ☎026-262-4222
■ご予約・お問い合わせ
soratere@apost.plala.or.jp
ご参加、お待ちしております!
障子のある家は、今は少ないと思うし
障子張りをやる機会もあまりないのではないかな??
そんなわけで、今回のソラテラはみんなで障子張りをやりたいと思います


そんな私も、障子張りは小さいころ、実家のお手伝いをした程度・・・
張る、というよりも古い障子を「アタタタタタタ」、と破く専門でした。
障子張りは、寒い思い出です。
お正月を迎えるために大掃除のひとつとして、
年末に家族みんなで張り替えていたのかなぁと今ではいい思い出ですが、
当時は寒かった記憶しかありません

それでも、障子を替えると部屋の中が明るくなったのを覚えています。
日本の家は障子の文化があって、最近では外国人に評価されているとか。
太陽や月、自然の明かりが部屋に差し込んで、しかもそれが直接光ではなく、
間接光で趣があって良いと。
障子の中にガラス窓がはめ込まれていて、外の景色も見れて開け閉めできるものや、月見窓、雪見窓など、名前も素敵です。
夏には、和紙ではなく、葦や竹などでできた障子(というのか分かりませんが)に変えて、夏の暑さや日差しを遮り、風通しの良い、夏障子を使っていたそうです。
障子ひとつとっても、日本の季節感、文化の香りがしますね


さて、そこで、障子だらけのお寺。
今は、和紙ではなくプラスチックなどの破れない障子紙なるものが
色々と出ているそうなんですが、ここはやっぱり、和紙でしょ!
ぐるりと、障子に囲まれたお部屋、どれだけ明るくなるか??
ぜひ、一緒に障子張りしてみませんか??
もちろん、破るのも、みんなで!
***********************
■日時 11月10日(土)10:00~
■会費 無料 お昼付き
■場所 玉泉寺 ☎026-262-4222
■ご予約・お問い合わせ
soratere@apost.plala.or.jp
ご参加、お待ちしております!
2018年10月13日
善光寺 お十夜へ
今年もお十夜の季節がやってきました。
十夜会は、「この世で十日十夜、善い行いをすることは、
仏さまのもとで善い行いを千年することにも勝る」という
仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)の教えを実践する法要です。
善光寺さんでは天台宗と浄土宗と2宗派が、
それぞれ10月と11月の10日間、のお十夜の法要を行っています。
法要の後、ご法話も聞くことができるので
時間のある時は楽しみに出かけています。
去年は確か行かれなかったのですが
今年行ってみたら、なんだか雰囲気が変わっていました。
赤いお十夜の提灯も前よりたくさんぶら下がって、仲見世の商店も開いているお店もあって、電気がついていたり。
夜でも歩きやすくなっていました。
法要や法話会に参加されている方も多くなったような。
宿坊に宿泊されているお客さんがお十夜に来られているのも、
多く感じました

その夜の法話は松本の玄向寺さん。
親しみやすい面白い住職さんで、
合掌の心、手を合わせる大切さをお話されました。
個人的には10月、寒くなりはじめの夜に
提灯がともる善光寺さんで法話が聞ける、というのは
なんだか素敵な秋の夜の過ごし方だなぁと思っているのです。
十日十夜は法要に行かれないけど、
良い行いをした気になるのです。
その余韻を楽しみながら
帰りにはしっかり、ラーメンを食べて帰ったのでした




十夜会は、「この世で十日十夜、善い行いをすることは、
仏さまのもとで善い行いを千年することにも勝る」という
仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)の教えを実践する法要です。
善光寺さんでは天台宗と浄土宗と2宗派が、
それぞれ10月と11月の10日間、のお十夜の法要を行っています。
法要の後、ご法話も聞くことができるので
時間のある時は楽しみに出かけています。
去年は確か行かれなかったのですが
今年行ってみたら、なんだか雰囲気が変わっていました。
赤いお十夜の提灯も前よりたくさんぶら下がって、仲見世の商店も開いているお店もあって、電気がついていたり。
夜でも歩きやすくなっていました。
法要や法話会に参加されている方も多くなったような。
宿坊に宿泊されているお客さんがお十夜に来られているのも、
多く感じました


その夜の法話は松本の玄向寺さん。
親しみやすい面白い住職さんで、
合掌の心、手を合わせる大切さをお話されました。
個人的には10月、寒くなりはじめの夜に
提灯がともる善光寺さんで法話が聞ける、というのは
なんだか素敵な秋の夜の過ごし方だなぁと思っているのです。
十日十夜は法要に行かれないけど、
良い行いをした気になるのです。
その余韻を楽しみながら
帰りにはしっかり、ラーメンを食べて帰ったのでした





2018年10月12日
「うつ病と人間関係」を読んで
11日の市民新聞に「うつ病と人間関係」という記事が載っていました。
日赤のお医者さんによる記事でした。
人間関係がうまくいかず心を病み、
逆に、個人の心の病ゆえに人間関係が著しく損なわれてしまう場合があり
病院に相談する方が増えたそうです。
解決しようとして相談する点は良いが、いささか偏りがちであると書いています。
問題は人と人との関わりであるから、医療や教育の枠を超え、
タテヨコナナメ、様々な人間関係がいかに豊富にあるか
(ソーシャルキャピタル(社会関係資本)、というのだそうです)、が重要であると。
さらにお医者さんは、普遍的な人間関係として
お寺や教会における、昔ながらの人々の集まりを揚げていました。
教義などに注目されがちであるがお寺や教会は、
地域社会の共同体づくりを通じて、人々に影響を与える力があり
改めて、そうした方向にも活路を求めましょう、と書いていました。
こうしたことを、お医者さんが書いていたので驚きでした。
人間関係の構築、など難しいことは思わず、寺務仕事の日々ですが
お寺にいれば、やはり、人のつながりを感じずにはいられませんし、
人と言わず、ご先祖や時代を遡って、江戸時代、鎌倉時代、、、歴史、
こうした繋がりまで感じることもあります。
お寺は治外法権というか、
ここでは偉い人もそうでない人も、肌の色も、男女も、
肩書きとかそういうものがなく、みんな平等にいられる場所ではないかと思うのです。
そうした居心地がよくて、昔から人が集う場所であったのではないでしょうか。
お医者さんが、お寺や教会、そうしたことに注目するのは、
やっぱり人のつながりが、私たちが生きる上で大切だということだと思います。
お寺にいても、悩みを抱えてしまうのは
コミュニケーションがうまく持てない人が多いのではないか、ということを感じます。
今はSNSが主流で、生身の人と対話することに慣れていない人が多い。
そうすると、どんどんコミュニケーション能力が低くなって、つながりが薄れていって・・・
相談する友達や知り合いもいない、お茶飲み話で解決するかも、ということも
どんどん雪だるま式に心の中に溜まっていって・・・というような悪循環になっているように思います。
お寺は、誰でも気兼ねなく、気軽に来ていいところ。
どんなバックグランドがあろうと、平等に接するのがお寺です。
だから、コミュニケーションが下手で、社会では受け入れづらい人でも
同じように接し、時には一緒にご飯を食べたり、掃除などの仕事を手伝ってもらったりしているうちに、自分に自信がついて、人と接するのに慣れていくのかな・・・
何にもとらわれずに人が集う場所。
それが、お医者さんのいう普遍的な人間関係であり、
お寺や教会における、昔ながらの人々の集まりなのだと思います。
そうした場所を開放し、受け入れるのはお寺の良い部分だと思います。
人間関係を云々、といった難しいことではなく
昔のように、お互いさま、よく来たね。ちょっと寄ってったい、の気持ちで在りたいと思います。
最後に。
市民新聞の記事によりますと
長野うつ病市民公開講座が10月28日、午前10時半から、ホテル国際21にて
開かれるそうです。
ご興味のある方は、ご参加ください
日赤のお医者さんによる記事でした。
人間関係がうまくいかず心を病み、
逆に、個人の心の病ゆえに人間関係が著しく損なわれてしまう場合があり
病院に相談する方が増えたそうです。
解決しようとして相談する点は良いが、いささか偏りがちであると書いています。
問題は人と人との関わりであるから、医療や教育の枠を超え、
タテヨコナナメ、様々な人間関係がいかに豊富にあるか
(ソーシャルキャピタル(社会関係資本)、というのだそうです)、が重要であると。
さらにお医者さんは、普遍的な人間関係として
お寺や教会における、昔ながらの人々の集まりを揚げていました。
教義などに注目されがちであるがお寺や教会は、
地域社会の共同体づくりを通じて、人々に影響を与える力があり
改めて、そうした方向にも活路を求めましょう、と書いていました。
こうしたことを、お医者さんが書いていたので驚きでした。
人間関係の構築、など難しいことは思わず、寺務仕事の日々ですが
お寺にいれば、やはり、人のつながりを感じずにはいられませんし、
人と言わず、ご先祖や時代を遡って、江戸時代、鎌倉時代、、、歴史、
こうした繋がりまで感じることもあります。
お寺は治外法権というか、
ここでは偉い人もそうでない人も、肌の色も、男女も、
肩書きとかそういうものがなく、みんな平等にいられる場所ではないかと思うのです。
そうした居心地がよくて、昔から人が集う場所であったのではないでしょうか。
お医者さんが、お寺や教会、そうしたことに注目するのは、
やっぱり人のつながりが、私たちが生きる上で大切だということだと思います。
お寺にいても、悩みを抱えてしまうのは
コミュニケーションがうまく持てない人が多いのではないか、ということを感じます。
今はSNSが主流で、生身の人と対話することに慣れていない人が多い。
そうすると、どんどんコミュニケーション能力が低くなって、つながりが薄れていって・・・
相談する友達や知り合いもいない、お茶飲み話で解決するかも、ということも
どんどん雪だるま式に心の中に溜まっていって・・・というような悪循環になっているように思います。
お寺は、誰でも気兼ねなく、気軽に来ていいところ。
どんなバックグランドがあろうと、平等に接するのがお寺です。
だから、コミュニケーションが下手で、社会では受け入れづらい人でも
同じように接し、時には一緒にご飯を食べたり、掃除などの仕事を手伝ってもらったりしているうちに、自分に自信がついて、人と接するのに慣れていくのかな・・・
何にもとらわれずに人が集う場所。
それが、お医者さんのいう普遍的な人間関係であり、
お寺や教会における、昔ながらの人々の集まりなのだと思います。
そうした場所を開放し、受け入れるのはお寺の良い部分だと思います。
人間関係を云々、といった難しいことではなく
昔のように、お互いさま、よく来たね。ちょっと寄ってったい、の気持ちで在りたいと思います。
最後に。
市民新聞の記事によりますと
長野うつ病市民公開講座が10月28日、午前10時半から、ホテル国際21にて
開かれるそうです。
ご興味のある方は、ご参加ください

2018年10月11日
10月のソラテラ開催しました
10月8日は、ソラテラでした。
精進料理を参加者の皆さんと。
おしゃべりを楽しみながら作りました。
メニューは
・栗と大豆の玄米ご飯
・じゃがいも、にんじん、きゅうりのしゃきしゃきサラダ
・かぼちゃのお月見団子
かぼちゃのお月見団子は
茹でて裏ごししたかぼちゃを、団子生地に混ぜ込みます。
黄色い色がきれいなお団子ができました。
生地をこねている時に
法事のときなどにお供えするお団子の話題に。
お墓にお団子をお供えした後に、カラスが食べやすいように
お団子を小さく作る地域もあるとのこと。
墓地によっては、お団子やお花などは、お参り後に
持ち帰るところもあるので、食べやすく小さくつくる、とは意外!
米粉ではなく、米がとれなかった地域では小麦粉で作るところもあったり。
お供え物一つとっても、地域性があるんですね。
昔は、各家庭でお供えお団子をつくっていましたが
最近では、和菓子屋さんなどにお願いすることが多いようです。
仏様のおやつとして、お団子。
お線香の煙は天まで昇る、ということでお線香も仏様の喜ぶものとされています。
あとは、お花やお水、が仏様のごちそうです。
お供え物は、特に決まりはありません。
仏さまの好きなものを供えるのが良いとされています。
その所々の地域性も大切にしつつ、
家庭でお団子も、作ってみれば簡単なので、ご家庭で作ってみてはいかがでしょう。
お供えした後は、美味しく、お下がりとしていただきましょう

トースターでチンしてもいいし、砂糖醤油をつけて食べても美味しいです。
久しぶりに、天気が良いソラテラでしたので、外ご飯をしましたよ。
ご参加いただいた皆さま、ありがとうございました!
精進料理を参加者の皆さんと。
おしゃべりを楽しみながら作りました。
メニューは
・栗と大豆の玄米ご飯
・じゃがいも、にんじん、きゅうりのしゃきしゃきサラダ
・かぼちゃのお月見団子
かぼちゃのお月見団子は
茹でて裏ごししたかぼちゃを、団子生地に混ぜ込みます。
黄色い色がきれいなお団子ができました。
生地をこねている時に
法事のときなどにお供えするお団子の話題に。
お墓にお団子をお供えした後に、カラスが食べやすいように
お団子を小さく作る地域もあるとのこと。
墓地によっては、お団子やお花などは、お参り後に
持ち帰るところもあるので、食べやすく小さくつくる、とは意外!
米粉ではなく、米がとれなかった地域では小麦粉で作るところもあったり。
お供え物一つとっても、地域性があるんですね。
昔は、各家庭でお供えお団子をつくっていましたが
最近では、和菓子屋さんなどにお願いすることが多いようです。
仏様のおやつとして、お団子。
お線香の煙は天まで昇る、ということでお線香も仏様の喜ぶものとされています。
あとは、お花やお水、が仏様のごちそうです。
お供え物は、特に決まりはありません。
仏さまの好きなものを供えるのが良いとされています。
その所々の地域性も大切にしつつ、
家庭でお団子も、作ってみれば簡単なので、ご家庭で作ってみてはいかがでしょう。
お供えした後は、美味しく、お下がりとしていただきましょう


トースターでチンしてもいいし、砂糖醤油をつけて食べても美味しいです。
久しぶりに、天気が良いソラテラでしたので、外ご飯をしましたよ。
ご参加いただいた皆さま、ありがとうございました!
2018年10月07日
信州新町 今昔企画展へ
信州新町の国道沿いにあるミュゼ蔵、というところで現在開催されている、
「信州新町の今昔 郷土の先人、まち自慢
後世に語り伝えたいこと」、と題された企画展に行ってきました。

新町出身の偉業などを紹介する展示会。
玉泉寺先々代の笠原観秀和尚も紹介されている、とのことで
ぜひとも見てみたい、と前から思っていたものでした。
観秀和尚さんは、戦前戦後を通じて、社会福祉に貢献。
玉泉寺本堂、境内内で保育園を運営していました。
日本で初めて季節保育を導入した、と紹介されていました。
季節保育というのは、農作業の繁忙期に子どもを預かる、というもので
農家が多かった昔、大変助かったようで、今でも
「お寺の保育園に通っていたんだよ」、と話してくれる人もいます。
その当時の玉泉寺保育園の写真も掲載されていましたが
当たり前ですが、子どもも多く、にぎやかな様子がうかがえます。
住職や住職の奥さん総出で、子育てをしていたんだろうなぁと思われます。
観秀和尚が、当時の地域新聞に学校寺院各種団体の協力として、
寄稿していました。
「寺院は、自然に恵まれた大殿堂と境内を持っていて、一年に一度や二度の法要に使用するだけではもったいない。大いに殿堂を開放して宗教家は率先欺業に活動してほしい。それがために畳が切れたのなら、檀信徒は喜んで表替えをしてくれる。この壮大な殿堂を十分利用することによって寺院の存在がある。・・・~宗教家も農家の困苦をともにする、幾分でも間接に助力する、これは全く観音菩薩のご活動の権化の姿である~・・・」
うーむ。観秀和尚さん、素晴らしいことを言っております。
改めて宗教家、寺院はどうあるべきか、考えさせられました。
その心を受け継いで、私たちも日々の寺務に取り組みたいと思います。
その他にも十名ほど、新町の先人たちが紹介。
宮尾さん、坂戸さん、塩入さん、聞きなじみのあるお名前ばかり・・・。
先人の皆さんがいて、私たちの暮らしがあるんだなぁと、感謝し、感動をしたのでした。
信州新町、昔はもっと小さな村に分かれていたわけですが、
皆さん、地域の暮らしを良くするために自分のできる分野で尽力されたことが
本当に心に伝わってきました。
企画展は明日、10月8日までなのですが、時間があればもう一度見たい・・・!
明日までですが、お時間ある方はぜひ、足をのばしてみてください。
「信州新町の今昔 郷土の先人、まち自慢
後世に語り伝えたいこと」、と題された企画展に行ってきました。

新町出身の偉業などを紹介する展示会。
玉泉寺先々代の笠原観秀和尚も紹介されている、とのことで
ぜひとも見てみたい、と前から思っていたものでした。
観秀和尚さんは、戦前戦後を通じて、社会福祉に貢献。
玉泉寺本堂、境内内で保育園を運営していました。
日本で初めて季節保育を導入した、と紹介されていました。
季節保育というのは、農作業の繁忙期に子どもを預かる、というもので
農家が多かった昔、大変助かったようで、今でも
「お寺の保育園に通っていたんだよ」、と話してくれる人もいます。
その当時の玉泉寺保育園の写真も掲載されていましたが
当たり前ですが、子どもも多く、にぎやかな様子がうかがえます。
住職や住職の奥さん総出で、子育てをしていたんだろうなぁと思われます。
観秀和尚が、当時の地域新聞に学校寺院各種団体の協力として、
寄稿していました。
「寺院は、自然に恵まれた大殿堂と境内を持っていて、一年に一度や二度の法要に使用するだけではもったいない。大いに殿堂を開放して宗教家は率先欺業に活動してほしい。それがために畳が切れたのなら、檀信徒は喜んで表替えをしてくれる。この壮大な殿堂を十分利用することによって寺院の存在がある。・・・~宗教家も農家の困苦をともにする、幾分でも間接に助力する、これは全く観音菩薩のご活動の権化の姿である~・・・」
うーむ。観秀和尚さん、素晴らしいことを言っております。
改めて宗教家、寺院はどうあるべきか、考えさせられました。
その心を受け継いで、私たちも日々の寺務に取り組みたいと思います。
その他にも十名ほど、新町の先人たちが紹介。
宮尾さん、坂戸さん、塩入さん、聞きなじみのあるお名前ばかり・・・。
先人の皆さんがいて、私たちの暮らしがあるんだなぁと、感謝し、感動をしたのでした。
信州新町、昔はもっと小さな村に分かれていたわけですが、
皆さん、地域の暮らしを良くするために自分のできる分野で尽力されたことが
本当に心に伝わってきました。
企画展は明日、10月8日までなのですが、時間があればもう一度見たい・・・!
明日までですが、お時間ある方はぜひ、足をのばしてみてください。
2018年10月06日
ケーキが食べたい!?
ケーキを買って思いました。
私は、ケーキが食べたいのではない!
私は、みんなと食べたいんだと思いました。
ケーキ買ってきたよ―!、と言ったら、
今忙しいから、食べてて!後で食べる、と言われて
そうか、それじゃあ・・・と一人で食べたのですが、
たいして美味しくありませんでした。
夜、残っていたケーキをみんなで
あーだこーだ言いながら、食べるのが
やっぱりケーキだな、美味しいな、と感じたのでした。
私は、ケーキが食べたいのではない!
私は、みんなと食べたいんだと思いました。
ケーキ買ってきたよ―!、と言ったら、
今忙しいから、食べてて!後で食べる、と言われて
そうか、それじゃあ・・・と一人で食べたのですが、
たいして美味しくありませんでした。
夜、残っていたケーキをみんなで
あーだこーだ言いながら、食べるのが
やっぱりケーキだな、美味しいな、と感じたのでした。
2018年10月04日
家族葬に思うこと
最近は、家族葬が増えました。
新聞のお悔やみ欄を見ても、家族葬でお葬式を済まされた方が多いのが分かります。
家族葬とは、故人が亡くなったことを広く告知せずに
家族や親近者で行うお葬式のことです。
理由は様々だと思いますが
付き合いも広くないし
お葬式は小さく、簡単でいい、と考えるからでしょうか。
お葬式のかたちも、時代によって変わってきました。
今は、合理化、簡素化、つながりが希薄な社会。
「家族葬」もそれを反映しているのだと思います。
そもそも、お葬式をなぜするかって
仏教では亡くなった方を仏様の弟子にして
安心してあの世へ送ることである儀式と同時に
残された家族がその死を受け止め、受け入れて
受け入れられなくても、とりあえず、一端の区切り、けじめをつけて、
生前お世話になった方々に、
「今までお世話になりました。
これからも変わらずお付き合いをお願いします」と挨拶、報告、
亡くなった方に代わってお礼を伝えたりすること。
その中で出る故人の思い出話をして偲んで、
そんな会話の中から、「そんな一面があったんだなぁ、そんな人だったんだなぁ」
「そんな交友関係もあったんだなぁ」、
と、家族も知らなかったその人が浮かんできたりするのだと思います。
そして、生前にお付き合いのあった人たちが
残された家族に「亡くなったあの人には世話になったから、
今度、困ったことがあったら言ってくださいね」、と
生前に故人がかけた恩がめぐって次へ送られるのだと思います。
そうした恩がめぐって、生きている私たちは
亡くなった方にも、周りの人にも助けてもらいながら生きていくのだと思います。
家族葬がいけないのではなくて
お葬式の意味は、最初に書いた儀式だけでなく、次の世代へつなげていく意味も
大きいのではないかなと
色々なご葬儀をお寺にいて見聞きしていて、とても思うのです。
初めは家族だけで、と考えていたご家族が
一般葬をされた後に、
「たくさんの人が手をあわせに来てくれて嬉しかった。」
「亡くなったおじいちゃんの人徳を感じることができたので
今後はそれを見習って生きようと思います。」、と
話されていたのは印象的でした。
お葬式にたくさんの人がお焼香に来てくれるだけでも
ただ純粋に家族は嬉しいと思うものです。
いろんな人を呼ぶのが面倒くさいから、
人との付き合いが面倒くさいから、
が、もし、家族葬を選ぶ理由となると
せっかく、亡くなられた方が築いてきた人のつながりやモノを
見逃すことになるのではないかな、と思うのです。
確かに、付き合っちゃうと面倒くさい人もいると思います。
付き合わずに、自由に好きな人とだけ付き合えればいいかもしれません。
でも、周り回って、嫌いな人の世話になってる自分もいるかもしれません。
どんなに世の中が便利になっても
人のつながりや助け合いがなければ人は生きていけないと思います。
お葬式は、そのつながりを次へつなげるものの代表なのではないでしょうか。
簡素化、合理化、できるところは多いにやればいいと思いますが
やってはならない部分、多少手間でも手間をかけねばならない部分は、あると思います。
新聞のお悔やみ欄を見ても、家族葬でお葬式を済まされた方が多いのが分かります。
家族葬とは、故人が亡くなったことを広く告知せずに
家族や親近者で行うお葬式のことです。
理由は様々だと思いますが
付き合いも広くないし
お葬式は小さく、簡単でいい、と考えるからでしょうか。
お葬式のかたちも、時代によって変わってきました。
今は、合理化、簡素化、つながりが希薄な社会。
「家族葬」もそれを反映しているのだと思います。
そもそも、お葬式をなぜするかって
仏教では亡くなった方を仏様の弟子にして
安心してあの世へ送ることである儀式と同時に
残された家族がその死を受け止め、受け入れて
受け入れられなくても、とりあえず、一端の区切り、けじめをつけて、
生前お世話になった方々に、
「今までお世話になりました。
これからも変わらずお付き合いをお願いします」と挨拶、報告、
亡くなった方に代わってお礼を伝えたりすること。
その中で出る故人の思い出話をして偲んで、
そんな会話の中から、「そんな一面があったんだなぁ、そんな人だったんだなぁ」
「そんな交友関係もあったんだなぁ」、
と、家族も知らなかったその人が浮かんできたりするのだと思います。
そして、生前にお付き合いのあった人たちが
残された家族に「亡くなったあの人には世話になったから、
今度、困ったことがあったら言ってくださいね」、と
生前に故人がかけた恩がめぐって次へ送られるのだと思います。
そうした恩がめぐって、生きている私たちは
亡くなった方にも、周りの人にも助けてもらいながら生きていくのだと思います。
家族葬がいけないのではなくて
お葬式の意味は、最初に書いた儀式だけでなく、次の世代へつなげていく意味も
大きいのではないかなと
色々なご葬儀をお寺にいて見聞きしていて、とても思うのです。
初めは家族だけで、と考えていたご家族が
一般葬をされた後に、
「たくさんの人が手をあわせに来てくれて嬉しかった。」
「亡くなったおじいちゃんの人徳を感じることができたので
今後はそれを見習って生きようと思います。」、と
話されていたのは印象的でした。
お葬式にたくさんの人がお焼香に来てくれるだけでも
ただ純粋に家族は嬉しいと思うものです。
いろんな人を呼ぶのが面倒くさいから、
人との付き合いが面倒くさいから、
が、もし、家族葬を選ぶ理由となると
せっかく、亡くなられた方が築いてきた人のつながりやモノを
見逃すことになるのではないかな、と思うのです。
確かに、付き合っちゃうと面倒くさい人もいると思います。
付き合わずに、自由に好きな人とだけ付き合えればいいかもしれません。
でも、周り回って、嫌いな人の世話になってる自分もいるかもしれません。
どんなに世の中が便利になっても
人のつながりや助け合いがなければ人は生きていけないと思います。
お葬式は、そのつながりを次へつなげるものの代表なのではないでしょうか。
簡素化、合理化、できるところは多いにやればいいと思いますが
やってはならない部分、多少手間でも手間をかけねばならない部分は、あると思います。