2025年05月20日
大般若会に参集して
少し前の話になりますが
同じ宗派のお寺で大般若会があり
玉泉寺の住職、副住職も呼ばれました。
コロナ以降、大般若会をされていなかったお寺ですので
以前と同じように大きくではなく、お手伝いに呼ばれるお寺さんも少ない、
とのことだったので
私も、住職、副住職と共に
大般若会に僧侶として参集してまいりました。
裏方として行事を支えるのは毎度のことですが
自分が僧侶としてお仕事をするのは、ほぼ初めて、、、
(いや、寺に住まい作務をすることが修行と言えば、日々お坊さんとしてお仕事をしているわけですが)
緊張もしましたが、終えてみると
とても清々しく、勤めを果たすことができました。
有難い教えの心を思いながら大般若経典を転読していますと
本当に、参拝された皆さんと一体になって結ばれている気持ちになるのです。
私一人だけじゃなく、その場にいた皆さんがきっと
おなじように清々しく、終えたのだと思います。
すべてをありのままに受け止めなさい、
そこに執着をしてもいけない、そこにとらわれてもいけない、
この世界のものは常に移り変わり、実体のないもの。
一切が空であるといったお釈迦様の心が転読の風にのって
本当にその場にいた私たちを包んでいるように感じました。
あぁ、素敵な行事だったんだな、と改めて感じたのです。
こちらのお寺では、参拝の檀家さんも一緒に転読していきます。
そうした時間を参拝の皆さんと一緒に共有できたことも良かった、と感じました。
ありがとうございました。
同じ宗派のお寺で大般若会があり
玉泉寺の住職、副住職も呼ばれました。
コロナ以降、大般若会をされていなかったお寺ですので
以前と同じように大きくではなく、お手伝いに呼ばれるお寺さんも少ない、
とのことだったので
私も、住職、副住職と共に
大般若会に僧侶として参集してまいりました。
裏方として行事を支えるのは毎度のことですが
自分が僧侶としてお仕事をするのは、ほぼ初めて、、、
(いや、寺に住まい作務をすることが修行と言えば、日々お坊さんとしてお仕事をしているわけですが)
緊張もしましたが、終えてみると
とても清々しく、勤めを果たすことができました。
有難い教えの心を思いながら大般若経典を転読していますと
本当に、参拝された皆さんと一体になって結ばれている気持ちになるのです。
私一人だけじゃなく、その場にいた皆さんがきっと
おなじように清々しく、終えたのだと思います。
すべてをありのままに受け止めなさい、
そこに執着をしてもいけない、そこにとらわれてもいけない、
この世界のものは常に移り変わり、実体のないもの。
一切が空であるといったお釈迦様の心が転読の風にのって
本当にその場にいた私たちを包んでいるように感じました。
あぁ、素敵な行事だったんだな、と改めて感じたのです。
こちらのお寺では、参拝の檀家さんも一緒に転読していきます。
そうした時間を参拝の皆さんと一緒に共有できたことも良かった、と感じました。
ありがとうございました。
2025年05月03日
GWは大般若一色
毎年、5月5日は玉泉寺の大般若会。
GW真っ只中の行事のため
連休だけどどこにも出かけられない我が家。
休み中の子供たちに
大般若経典が破れていないか確認作業や
寺内境内の掃除を手伝ってもらいます。
中2になる長男も
嫌がりながらも一番手伝ってくれ、
(お兄ちゃんがやるから妹弟もやる)
親バカながらも、
なんていい子たちなの・・・・・・!!!!!!
と毎年感動。
嫌でも逃げられない環境だからだよ、、、、、と言われ
ほんとにそうだよね、、
ごめんね、ありがとう!!
でも、手伝う子どもたちの背中からは
そこまで嫌がってない感というか
じゃれあいながらやってる感がして
ふふふん、と思ったり。
どこにも出かけられないけど
良いGWなのです。



ヘルメットをして階段を掃く次男・・・
GW真っ只中の行事のため
連休だけどどこにも出かけられない我が家。
休み中の子供たちに
大般若経典が破れていないか確認作業や
寺内境内の掃除を手伝ってもらいます。
中2になる長男も
嫌がりながらも一番手伝ってくれ、
(お兄ちゃんがやるから妹弟もやる)
親バカながらも、
なんていい子たちなの・・・・・・!!!!!!
と毎年感動。
嫌でも逃げられない環境だからだよ、、、、、と言われ
ほんとにそうだよね、、
ごめんね、ありがとう!!
でも、手伝う子どもたちの背中からは
そこまで嫌がってない感というか
じゃれあいながらやってる感がして
ふふふん、と思ったり。
どこにも出かけられないけど
良いGWなのです。



ヘルメットをして階段を掃く次男・・・
2025年04月26日
ご法事の後のティーセット
本日、午後のご法事ということで
法事終えた後にコーヒーとケーキのセットをお願いしたいと
ご依頼ありました。
少人数の(とはいえ本日は12名様)法要が今後も通常となるでしょうから
こうしたこぢんまりとしたセットであれば、承ることできます。
鉄眼禅師のゆかりのお寺から取り寄せた鉄眼茶を使用した
ババロアのパフェ。
そうしたところから、仏教へのいとぐちになったら良いな、という思いも込めて。
爽やかなレモンのタルトも一緒に。
食べられませんが、境内の花を添えました。
千葉から来られた皆さんも、大変喜んでくださって、一安心。
こうした機会を与えてくださって
ありがとうございました。
またぜひ、お越しください。

法事終えた後にコーヒーとケーキのセットをお願いしたいと
ご依頼ありました。
少人数の(とはいえ本日は12名様)法要が今後も通常となるでしょうから
こうしたこぢんまりとしたセットであれば、承ることできます。
鉄眼禅師のゆかりのお寺から取り寄せた鉄眼茶を使用した
ババロアのパフェ。
そうしたところから、仏教へのいとぐちになったら良いな、という思いも込めて。
爽やかなレモンのタルトも一緒に。
食べられませんが、境内の花を添えました。
千葉から来られた皆さんも、大変喜んでくださって、一安心。
こうした機会を与えてくださって
ありがとうございました。
またぜひ、お越しください。

2025年04月13日
庭木の掃除 心も同じ
さあ、春がやってきました。
雪の下に隠れていた枝や葉を切って、掃いて、片づけて。
雪の重みに押しつぶされた木の枝が
もう一度、地中深くに潜り込み、根を張って、広がって、変な形になって
剪定しようにもなかなか苦戦します。
雪に押しつぶされて暗く、逃げ道がないと
下へ下へ、変形しながら広がるしかありませんが
それを時に雪をかき分け、剪定をして
風通し良く、光を当ててあげると
すっきりと、生き生きとします。
人の心も同じだなぁと思いました。
押しつぶされて下へ下へと根を張って
気持ちが後ろ向きになるよりも
定期的に整理整頓して、
たまには風と光を通してあげることが
心にも大切。
一仕事終え、春の光を浴びてすっきりとした庭を見て
プハーっと一杯。
月もきれいな夜でした。

雪の下に隠れていた枝や葉を切って、掃いて、片づけて。
雪の重みに押しつぶされた木の枝が
もう一度、地中深くに潜り込み、根を張って、広がって、変な形になって
剪定しようにもなかなか苦戦します。
雪に押しつぶされて暗く、逃げ道がないと
下へ下へ、変形しながら広がるしかありませんが
それを時に雪をかき分け、剪定をして
風通し良く、光を当ててあげると
すっきりと、生き生きとします。
人の心も同じだなぁと思いました。
押しつぶされて下へ下へと根を張って
気持ちが後ろ向きになるよりも
定期的に整理整頓して、
たまには風と光を通してあげることが
心にも大切。
一仕事終え、春の光を浴びてすっきりとした庭を見て
プハーっと一杯。
月もきれいな夜でした。

2025年03月27日
お彼岸終えて
春彼岸も終えて。
寒さや雪を気にかけていた初午星まつりが済み、
お彼岸も終え、ようやく春が来たかな、と思えるここ数日の暖かさ。
お墓参りに来られるご家族も多く、
ご無沙汰してます、の挨拶をしたりして。
お墓の相談の方もちらほらいらっしゃいます。
「簡単でいいよ」「お墓はいらないよ」、という考え方もあるけれど
それが「お金が高いから」、というような金額の話だけで済まされるとしたら
もう少し、深く考えてみてもらいたいと思います。
「お墓」や、「死」を考えることは
これからの自分の生き方だったり、方向性を決めることにもつながります。
自分が今後、どこでどんな生活をするかによって
お墓の有無、場所、形態は違ってくるはず。
変な話ですが逆から考えてみると、「お墓」「死に様」を考えると
さかのぼって、自分の「生き方」、どう生きればいいのか、というようなことが
ぼんやりでも浮き上がってくるような気がします。
「高いからいらない」「面倒くさい」という理由も様々ありましょうが
考えてみて、そうだったら良し。。
でも一度、家族で考えて、話してみると良いのではないかな、と思ったりしています。
寒さや雪を気にかけていた初午星まつりが済み、
お彼岸も終え、ようやく春が来たかな、と思えるここ数日の暖かさ。
お墓参りに来られるご家族も多く、
ご無沙汰してます、の挨拶をしたりして。
お墓の相談の方もちらほらいらっしゃいます。
「簡単でいいよ」「お墓はいらないよ」、という考え方もあるけれど
それが「お金が高いから」、というような金額の話だけで済まされるとしたら
もう少し、深く考えてみてもらいたいと思います。
「お墓」や、「死」を考えることは
これからの自分の生き方だったり、方向性を決めることにもつながります。
自分が今後、どこでどんな生活をするかによって
お墓の有無、場所、形態は違ってくるはず。
変な話ですが逆から考えてみると、「お墓」「死に様」を考えると
さかのぼって、自分の「生き方」、どう生きればいいのか、というようなことが
ぼんやりでも浮き上がってくるような気がします。
「高いからいらない」「面倒くさい」という理由も様々ありましょうが
考えてみて、そうだったら良し。。
でも一度、家族で考えて、話してみると良いのではないかな、と思ったりしています。
2025年03月13日
令和七年度 初午星まつり 行いました
今年度も無事に玉泉寺の初午星まつりを執行することができました。
足元の悪い中、大勢の参拝の方にお越しいただき、有り難うございました。
毎年のように、護摩の準備からお手伝いに来て下さる方には感謝です。
「玉泉寺さんのためなら」、と
連日お手伝いに通ってくださる方がいて、この護摩は成り立っていると思いますし
当日の朝からお投じ蕎麦を振舞うために来て下さる皆々様にも感謝です。
「玉泉寺さんのためなら」、「玉泉寺さんがあるから」、と言って集ってくださる方々がいる限りは
私たちもお寺を護るために頑張らないとな、と気が引き締まります。
世の中は不穏な事件や事故、災害が多いですが
こうして仏縁に導かれ、集う皆さんと
互いに助け合いながら前向きに生きられればと思うのです。
本年もご参拝いただき、有り難うございました。
足元の悪い中、大勢の参拝の方にお越しいただき、有り難うございました。
毎年のように、護摩の準備からお手伝いに来て下さる方には感謝です。
「玉泉寺さんのためなら」、と
連日お手伝いに通ってくださる方がいて、この護摩は成り立っていると思いますし
当日の朝からお投じ蕎麦を振舞うために来て下さる皆々様にも感謝です。
「玉泉寺さんのためなら」、「玉泉寺さんがあるから」、と言って集ってくださる方々がいる限りは
私たちもお寺を護るために頑張らないとな、と気が引き締まります。
世の中は不穏な事件や事故、災害が多いですが
こうして仏縁に導かれ、集う皆さんと
互いに助け合いながら前向きに生きられればと思うのです。
本年もご参拝いただき、有り難うございました。
2025年03月04日
冬に逆戻り。。。
来週の初午星まつりに向けて準備を進めています。
先週、今週と雪かきバスターズが駆けつけてくれて
お寺の玄関と裏庭の雪をかいてくれたのに、ここへ来て
冬に逆戻りの天気。。
雪がてんこ盛りの玉泉寺ですので
初午星まつりは暖かい恰好で、足元は冬仕様でお参りください
そして、3月はひな祭り。
子どもたちが、
「今度の給食はねぇ、、、ち、がつくご飯だよ。
なんだっけ、名前忘れちゃった。」
というので、ち、、、、「ちらし寿司?」
と言ったら、「そう、それそれ!」
「ところで、ちらし寿司ってどんなご飯?」
「あれ、ちらし寿司、知らない?
食べたことない?作ったことなかったっけ?」
「知らなーい」
・・・・そういえば、ちらし寿司を作ったことがないかもしれません。
酢飯を用意して、いろいろ具材を乗せたり錦糸卵を作ったり、、、と
少し面倒くさそうなので、無意識にメニューにしなかったのかもしれません。
8歳になる子供がちらし寿司を知らない、食べたことがないというのは
いささか良ろしくない気がするので
今年のひな祭りはちらし寿司を作ろうか・・・と、思ったものの
結局手間がかかるので
買ってきた握り寿司になったということです
しかし、そう考えると
日本の学校給食というのは
季節の献立や、季節の野菜、郷土食や地元の食材など
とてもよく考えて作られていて
素晴らしいなと思うのと同時に
せわしなく、そしてズボラにしている親としては本当に感謝です。
子どもたちにちらし寿司を食べさせてくれて有難う、と心から思った3月ひな祭りでした
先週、今週と雪かきバスターズが駆けつけてくれて
お寺の玄関と裏庭の雪をかいてくれたのに、ここへ来て
冬に逆戻りの天気。。
雪がてんこ盛りの玉泉寺ですので
初午星まつりは暖かい恰好で、足元は冬仕様でお参りください

そして、3月はひな祭り。
子どもたちが、
「今度の給食はねぇ、、、ち、がつくご飯だよ。
なんだっけ、名前忘れちゃった。」
というので、ち、、、、「ちらし寿司?」
と言ったら、「そう、それそれ!」
「ところで、ちらし寿司ってどんなご飯?」
「あれ、ちらし寿司、知らない?
食べたことない?作ったことなかったっけ?」
「知らなーい」
・・・・そういえば、ちらし寿司を作ったことがないかもしれません。
酢飯を用意して、いろいろ具材を乗せたり錦糸卵を作ったり、、、と
少し面倒くさそうなので、無意識にメニューにしなかったのかもしれません。
8歳になる子供がちらし寿司を知らない、食べたことがないというのは
いささか良ろしくない気がするので
今年のひな祭りはちらし寿司を作ろうか・・・と、思ったものの
結局手間がかかるので
買ってきた握り寿司になったということです

しかし、そう考えると
日本の学校給食というのは
季節の献立や、季節の野菜、郷土食や地元の食材など
とてもよく考えて作られていて
素晴らしいなと思うのと同時に
せわしなく、そしてズボラにしている親としては本当に感謝です。
子どもたちにちらし寿司を食べさせてくれて有難う、と心から思った3月ひな祭りでした

2025年02月06日
2025 令和7年度 初午護摩供の受付、始まりました。
初午とは、年が変わり、始めての午の日を指しますが(今年は2月6日)
玉泉寺では皆さんがお寺にお越しやすい、雪解けの3月の頃の日曜日
毎年3月の第二日曜日に初午護摩供を行っております。
このおまつりは星まつり、星供養とも言いますが
人はそれぞれ生まれ持った星とその年によって変わる九曜と呼ばれる九つの星を持つと言われています。
その九曜は毎年変わり、吉凶があるので
新しい年を迎える節分や立春には
良い星回りの年はより良く、悪い星回りの年には少しでも災いが少なくなるように
自分の星をおまつりするのです。
この初午の日は、五穀豊穣を願い、お稲荷さんをおまつりする日でもあるので
お稲荷さんの神代をご希望される方も一緒にお参りすることができます。
全国のお寺さんでも、この初午のお参りをされているところが多いでしょう。
真言密教では護摩の火をたき、その功徳をもって祈願するのです。
玉泉寺では、今年は3月9日(日)に、初午護摩祈祷会が厳修されます。
今年も、その受付申込の準備が始まりました。
毎年、大量に印刷し、発送し、、、という作業。
もっとペーパーレスにできないものか?
郵便代も高くなってきているし、、と思うのですが
古い行事ですので昔ながらのこのスタイルを好む方も多く、
私なんかの「もっとこうしたら作業効率アップになるのでは?」「これって無駄なんじゃ、、、」という思いも
今のところ置いておかれています。
このブログでもたまに
近年の無駄を省き、効率化合理化を進める弊害、といった思いをつづりますが
古きの伝統を守りつつ(それを望む声)、時代に合わせる(効率化)の難しさを感じたりします。
私がここに来る前からずっと、玉泉寺を支えてくださっていた人が
「玉泉寺の初午といったら、これ!」という思いや楽しみをニューカマーの私が(といっても14年にはなる。でも先祖代々の皆様には負ける
)
「こっちの方が早いです、お金かかりません」、といったようなことでぐいぐいと変えることはできないなぁと思うのです。
なので、新しく檀家さんになった方や、護摩をお申し込みされる方には
「玉泉寺はえらくまどろっこしいやり方をしているなぁ、、」と思われるかもしれませんが
今のところ、やはり、これが玉泉寺初午スタイルなのだと思うのです。
それに、この大量の申込帳ですが
この帳面自体も護摩の火にあて、その帳面に記名されている方すべてに
護摩の功徳がまわりますように、玉泉寺ではしているので
申込されるときには、ぜひ、ご家族の名前を書いて
この申込帳も一緒に送り返していただくと良いかと思います。
(なぜ、この帳面を送っているか、ということを
もっと皆さまに伝わるように説明することが大切ですね、、、)
そして、玉泉寺の初午と言えば「お投じ蕎麦」のふるまいですが
近年では、こうしたふるまいをしないところも増えていると聞きます。
ここは私は続けて頑張りたいところだと思っています。
しかし、これも私一人でできることではなく
お寺さんにお願いされたから仕方なく手伝いに行く、のではなく
楽しんで一緒に作業ができる仲間が今後もできればいいなと思っています。
と、いうわけで長くなってしまいましたが
令和7年度の初午護摩祈祷会の申込、ご希望される方はご連絡ください!、
ということでした。
どうぞよろしくお願いいたします。

玉泉寺では皆さんがお寺にお越しやすい、雪解けの3月の頃の日曜日
毎年3月の第二日曜日に初午護摩供を行っております。
このおまつりは星まつり、星供養とも言いますが
人はそれぞれ生まれ持った星とその年によって変わる九曜と呼ばれる九つの星を持つと言われています。
その九曜は毎年変わり、吉凶があるので
新しい年を迎える節分や立春には
良い星回りの年はより良く、悪い星回りの年には少しでも災いが少なくなるように
自分の星をおまつりするのです。
この初午の日は、五穀豊穣を願い、お稲荷さんをおまつりする日でもあるので
お稲荷さんの神代をご希望される方も一緒にお参りすることができます。
全国のお寺さんでも、この初午のお参りをされているところが多いでしょう。
真言密教では護摩の火をたき、その功徳をもって祈願するのです。
玉泉寺では、今年は3月9日(日)に、初午護摩祈祷会が厳修されます。
今年も、その受付申込の準備が始まりました。
毎年、大量に印刷し、発送し、、、という作業。
もっとペーパーレスにできないものか?
郵便代も高くなってきているし、、と思うのですが
古い行事ですので昔ながらのこのスタイルを好む方も多く、
私なんかの「もっとこうしたら作業効率アップになるのでは?」「これって無駄なんじゃ、、、」という思いも
今のところ置いておかれています。
このブログでもたまに
近年の無駄を省き、効率化合理化を進める弊害、といった思いをつづりますが
古きの伝統を守りつつ(それを望む声)、時代に合わせる(効率化)の難しさを感じたりします。
私がここに来る前からずっと、玉泉寺を支えてくださっていた人が
「玉泉寺の初午といったら、これ!」という思いや楽しみをニューカマーの私が(といっても14年にはなる。でも先祖代々の皆様には負ける

「こっちの方が早いです、お金かかりません」、といったようなことでぐいぐいと変えることはできないなぁと思うのです。
なので、新しく檀家さんになった方や、護摩をお申し込みされる方には
「玉泉寺はえらくまどろっこしいやり方をしているなぁ、、」と思われるかもしれませんが
今のところ、やはり、これが玉泉寺初午スタイルなのだと思うのです。
それに、この大量の申込帳ですが
この帳面自体も護摩の火にあて、その帳面に記名されている方すべてに
護摩の功徳がまわりますように、玉泉寺ではしているので
申込されるときには、ぜひ、ご家族の名前を書いて
この申込帳も一緒に送り返していただくと良いかと思います。
(なぜ、この帳面を送っているか、ということを
もっと皆さまに伝わるように説明することが大切ですね、、、)
そして、玉泉寺の初午と言えば「お投じ蕎麦」のふるまいですが
近年では、こうしたふるまいをしないところも増えていると聞きます。
ここは私は続けて頑張りたいところだと思っています。
しかし、これも私一人でできることではなく
お寺さんにお願いされたから仕方なく手伝いに行く、のではなく
楽しんで一緒に作業ができる仲間が今後もできればいいなと思っています。
と、いうわけで長くなってしまいましたが
令和7年度の初午護摩祈祷会の申込、ご希望される方はご連絡ください!、
ということでした。
どうぞよろしくお願いいたします。

2025年01月30日
万福寺産の豆まきが開催されます
昨年もブログで紹介しました、
万福寺さんの豆まき。
今年は2月8日(土)に開かれるようです。
もし参加してみたい、という方いらっしゃったら、
2月3日くらいまでにご連絡ください。
こうした場に出かける際は
「お灯明料」といっていくらかお包みすることがマナーです。
大体目安は地域差もあるでしょうが5千円くらいでしょうか。
そして、お供えのお菓子やお酒などを持っていくとさらに良いです。
自分が行ってみたいと思っても
お世話になるわけですから礼儀と言えます。
お寺にいると、いろいろな方がみえるので
この人はこちらの都合や意見は関係なく、
自分の都合だけで話や物事を考えているな、とか
この人は、いつも何も持ってこないな、ということを時々思います。
そして、すべてとは言いませんが、そうした人たちは何か困りごとを抱えています。
つまり、人との付き合い、社会との付き合いを分かっていない、知らない、
自分がそれをすることでどう思われるかに気付かないから
困りごとができてしまう、とも考えられるのです。
誰かに何かをお願いするのには
相手の都合を聞くのがマナーだし
手土産を持っていくのも礼儀です。
今の社会、そんなのコンプライアンスにひっかかる、という声もあるでしょうが
何かを持っていく、というのはお金をかけたものでなくても
「気持ち」です。
自分が作ったおやきとか、漬物、とか野菜、とか。
また、現代でこうしたことを、知らない、気付いていない人に伝えるのは
お寺が担うことなのかも、とも思うのです。
他の機関は気を使いすぎて(コンプライアンスとか)
言えないことがあるのかも。
お寺が「気持ち」で、というと分かりづらい、と言われてしまうのですが
はっきりと言えないのも仕方ないところです。
お金のない人にお金をこれだけ持ってきてください、とは言えないし
それを払えない人にはお経を読みません、とも言えないのです。
お経は定額ではなく、商品ではないのですから。
お金持ちの人は、たくさんお金をお渡ししたらよいと思うし(このお寺に払いたい、と思えば)
お金のない人は、モノや行動や気持ち、で良いのだと思います。
その「気持ち」を相手に渡すことが関係を円滑にすすめるうえでは
大切だと思います。
お金をもってこい、手土産持ってこい、ということではありません。
でも、そうした気持ちを伝えることをマナーや礼儀、というのなら
どこかへお邪魔し、出かけ、時間をとってもらい、世話になる際には
謝礼や手土産を渡すのが、やはり礼儀であり
社会で気持ちよい関係を築くのに必要なことだと思います。
万福寺さんの豆まき。
今年は2月8日(土)に開かれるようです。
もし参加してみたい、という方いらっしゃったら、
2月3日くらいまでにご連絡ください。
こうした場に出かける際は
「お灯明料」といっていくらかお包みすることがマナーです。
大体目安は地域差もあるでしょうが5千円くらいでしょうか。
そして、お供えのお菓子やお酒などを持っていくとさらに良いです。
自分が行ってみたいと思っても
お世話になるわけですから礼儀と言えます。
お寺にいると、いろいろな方がみえるので
この人はこちらの都合や意見は関係なく、
自分の都合だけで話や物事を考えているな、とか
この人は、いつも何も持ってこないな、ということを時々思います。
そして、すべてとは言いませんが、そうした人たちは何か困りごとを抱えています。
つまり、人との付き合い、社会との付き合いを分かっていない、知らない、
自分がそれをすることでどう思われるかに気付かないから
困りごとができてしまう、とも考えられるのです。
誰かに何かをお願いするのには
相手の都合を聞くのがマナーだし
手土産を持っていくのも礼儀です。
今の社会、そんなのコンプライアンスにひっかかる、という声もあるでしょうが
何かを持っていく、というのはお金をかけたものでなくても
「気持ち」です。
自分が作ったおやきとか、漬物、とか野菜、とか。
また、現代でこうしたことを、知らない、気付いていない人に伝えるのは
お寺が担うことなのかも、とも思うのです。
他の機関は気を使いすぎて(コンプライアンスとか)
言えないことがあるのかも。
お寺が「気持ち」で、というと分かりづらい、と言われてしまうのですが
はっきりと言えないのも仕方ないところです。
お金のない人にお金をこれだけ持ってきてください、とは言えないし
それを払えない人にはお経を読みません、とも言えないのです。
お経は定額ではなく、商品ではないのですから。
お金持ちの人は、たくさんお金をお渡ししたらよいと思うし(このお寺に払いたい、と思えば)
お金のない人は、モノや行動や気持ち、で良いのだと思います。
その「気持ち」を相手に渡すことが関係を円滑にすすめるうえでは
大切だと思います。
お金をもってこい、手土産持ってこい、ということではありません。
でも、そうした気持ちを伝えることをマナーや礼儀、というのなら
どこかへお邪魔し、出かけ、時間をとってもらい、世話になる際には
謝礼や手土産を渡すのが、やはり礼儀であり
社会で気持ちよい関係を築くのに必要なことだと思います。
2025年01月29日
氷河期世代と言われて〜お寺の役割〜
長野駅前で殺人事件が起きました。
事件を知った時には本当に驚き、
そして日常見慣れた景色が一変して恐ろしく感じました。
被害者の方、ご遺族にはかける言葉も見当たらず
ただただ、心よりお悔やみ申し上げます。
狭い地域ですので被害にあわれた方のお話や人柄も耳にすることもあり
サッカークラブで教わっていたんだ、とか
知り合いの方の息子さんであった、など
身近な話題であるからより、心が痛む思いがします。
容疑者もまた、生活圏が身近であり
何故、、といった声も聞かれます。
容疑者の男は46歳、独身無職。
生活保護を受けていたと新聞で知りました。
ニュースやネットで話しがでますが
この年代は、私も同年代ですが
就職氷河期世代と言われます。
バブルがはじけ、景気が悪く
就職しようにもできない。
契約社員でようやく仕事を見つけても
すぐに首を切られ、まともに社会保険にも加入できない。
そうするうちに職は自分の意に反して点々とならざるを得なく
履歴書にも転職したことを書くことすら嫌になってくる。
契約社員での環境は決して良いものではなく
そこで頑張って働いても今度はストレスでうつ病になったりすることも。
生活資金が安定しないから結婚なんて考えることもできずにそのままずるずると。
下の世代からはどんどん、IT技術のずっと高い新人が卒業してくるから、
いつまでも新人気取りでいられない。
戦後の焼け野原から這い上がった世代や
バブルでノリノリだった世代からしたら
そんなやつは根性が足りないとか
転職たくさんしてしょうもないやつと思われ
確かに難しい年代であるな、、と思う。
その世代でも、もちろんすべてがそうなわけではなく
普通に暮らしている人もいる。
苦しいことがあっても、いや、苦しいことがないことなんてないけれど皆、頑張っている。
容疑者は犯した罪は決して許されざることだけれど
昨日の我が身、明日の我が身、という気持ちを持たないでもない。
氷河期世代が皆同じではないけれど
寛容ではない今の社会がこのような犯人を作ってしまった一因もあるのでは、と思う。
私はこうした社会にお寺の役割が大切だと思う。
生きるのがつらい人や苦しい人はお寺に来たら良いと思う。
お寺で庭掃除や行事のお手伝いなどの、仕事をしたら良いと思う。
ただお寺に居るのではなく、作務をしたらよい。
ぜひ、そうしてもらいたい。
そうしていると、かならず、ありがとうと言ってもらえる。
ありがとう、と言ってもらえると自分がここにいて良い、存在意味があると
感じることができる。
例えば、玉泉寺の毎年3月にある初午星まつり。
檀家の人たちが高齢化して、お手伝いを毎年募集しているけれど
そうした場所で、お手伝いをしたら良いと思う。
みんなでワイワイと。食事付き。
参拝に来た人には「ご苦労様」、と言ってもらえる。
そうしているうちに
自分が得意なことをしていると有り難がれるし、重宝がられる。
ありがとう、助かったよ、また来てね、またおいで、そうした場所が必要なのではないだろうか。
実際、お寺としては本当に有り難いのだから。
そうした、皆、利害なく過ごす中で
自分の存在を自分が認めてあげればいいのではないかと思う。
そうした場所を提供するのには
お寺というのは、とても良いところだ。
現代のお寺は、そうした場の開放をすることも大切だと思うし
玉泉寺はそうした場所でありたいと思っている。
玉泉寺の親戚のお寺で、朝日村の古川寺、というお寺がある。
このお寺は地域の村寺として朝日村をまとめていて
また、お寺も村によって支えられている。
毎年正月の観音祭りには、老いも若きも地域の人たち皆でお手伝いをして
そして打ち上げ会もやり、それを楽しみにもしていて、
それぞれのできることを協力しながら祭りを支えている。
ある意味、現代には失われた
寛容な社会がお寺にはあるのだ。
ひと昔前の日本には、こうした生きづらさを感じる人や人との関わりが苦手な人にも居場所や椅子があって、地域の祭りや行事も、皆が活躍できる役割があったのだと思う。
そうした社会から、コスパタイパ、効率化であったり成果を重視する社会になっていき…
この競争から外れたら、明日は我が身、と思ってしまう人もいるのではないだろうか。
ぜひ、お寺へ行ってみたらいいと思う。
そして、自分のできることをやってみたらいい。
庭掃除でも、雪かきでも、感謝されることをやってみたらいい。
そして、ありがとう、といって、言われて、ごはんを一緒に食べたらいいと思う。
事件を知った時には本当に驚き、
そして日常見慣れた景色が一変して恐ろしく感じました。
被害者の方、ご遺族にはかける言葉も見当たらず
ただただ、心よりお悔やみ申し上げます。
狭い地域ですので被害にあわれた方のお話や人柄も耳にすることもあり
サッカークラブで教わっていたんだ、とか
知り合いの方の息子さんであった、など
身近な話題であるからより、心が痛む思いがします。
容疑者もまた、生活圏が身近であり
何故、、といった声も聞かれます。
容疑者の男は46歳、独身無職。
生活保護を受けていたと新聞で知りました。
ニュースやネットで話しがでますが
この年代は、私も同年代ですが
就職氷河期世代と言われます。
バブルがはじけ、景気が悪く
就職しようにもできない。
契約社員でようやく仕事を見つけても
すぐに首を切られ、まともに社会保険にも加入できない。
そうするうちに職は自分の意に反して点々とならざるを得なく
履歴書にも転職したことを書くことすら嫌になってくる。
契約社員での環境は決して良いものではなく
そこで頑張って働いても今度はストレスでうつ病になったりすることも。
生活資金が安定しないから結婚なんて考えることもできずにそのままずるずると。
下の世代からはどんどん、IT技術のずっと高い新人が卒業してくるから、
いつまでも新人気取りでいられない。
戦後の焼け野原から這い上がった世代や
バブルでノリノリだった世代からしたら
そんなやつは根性が足りないとか
転職たくさんしてしょうもないやつと思われ
確かに難しい年代であるな、、と思う。
その世代でも、もちろんすべてがそうなわけではなく
普通に暮らしている人もいる。
苦しいことがあっても、いや、苦しいことがないことなんてないけれど皆、頑張っている。
容疑者は犯した罪は決して許されざることだけれど
昨日の我が身、明日の我が身、という気持ちを持たないでもない。
氷河期世代が皆同じではないけれど
寛容ではない今の社会がこのような犯人を作ってしまった一因もあるのでは、と思う。
私はこうした社会にお寺の役割が大切だと思う。
生きるのがつらい人や苦しい人はお寺に来たら良いと思う。
お寺で庭掃除や行事のお手伝いなどの、仕事をしたら良いと思う。
ただお寺に居るのではなく、作務をしたらよい。
ぜひ、そうしてもらいたい。
そうしていると、かならず、ありがとうと言ってもらえる。
ありがとう、と言ってもらえると自分がここにいて良い、存在意味があると
感じることができる。
例えば、玉泉寺の毎年3月にある初午星まつり。
檀家の人たちが高齢化して、お手伝いを毎年募集しているけれど
そうした場所で、お手伝いをしたら良いと思う。
みんなでワイワイと。食事付き。
参拝に来た人には「ご苦労様」、と言ってもらえる。
そうしているうちに
自分が得意なことをしていると有り難がれるし、重宝がられる。
ありがとう、助かったよ、また来てね、またおいで、そうした場所が必要なのではないだろうか。
実際、お寺としては本当に有り難いのだから。
そうした、皆、利害なく過ごす中で
自分の存在を自分が認めてあげればいいのではないかと思う。
そうした場所を提供するのには
お寺というのは、とても良いところだ。
現代のお寺は、そうした場の開放をすることも大切だと思うし
玉泉寺はそうした場所でありたいと思っている。
玉泉寺の親戚のお寺で、朝日村の古川寺、というお寺がある。
このお寺は地域の村寺として朝日村をまとめていて
また、お寺も村によって支えられている。
毎年正月の観音祭りには、老いも若きも地域の人たち皆でお手伝いをして
そして打ち上げ会もやり、それを楽しみにもしていて、
それぞれのできることを協力しながら祭りを支えている。
ある意味、現代には失われた
寛容な社会がお寺にはあるのだ。
ひと昔前の日本には、こうした生きづらさを感じる人や人との関わりが苦手な人にも居場所や椅子があって、地域の祭りや行事も、皆が活躍できる役割があったのだと思う。
そうした社会から、コスパタイパ、効率化であったり成果を重視する社会になっていき…
この競争から外れたら、明日は我が身、と思ってしまう人もいるのではないだろうか。
ぜひ、お寺へ行ってみたらいいと思う。
そして、自分のできることをやってみたらいい。
庭掃除でも、雪かきでも、感謝されることをやってみたらいい。
そして、ありがとう、といって、言われて、ごはんを一緒に食べたらいいと思う。