2025年01月30日
万福寺産の豆まきが開催されます
昨年もブログで紹介しました、
万福寺さんの豆まき。
今年は2月8日(土)に開かれるようです。
もし参加してみたい、という方いらっしゃったら、
2月3日くらいまでにご連絡ください。
こうした場に出かける際は
「お灯明料」といっていくらかお包みすることがマナーです。
大体目安は地域差もあるでしょうが5千円くらいでしょうか。
そして、お供えのお菓子やお酒などを持っていくとさらに良いです。
自分が行ってみたいと思っても
お世話になるわけですから礼儀と言えます。
お寺にいると、いろいろな方がみえるので
この人はこちらの都合や意見は関係なく、
自分の都合だけで話や物事を考えているな、とか
この人は、いつも何も持ってこないな、ということを時々思います。
そして、すべてとは言いませんが、そうした人たちは何か困りごとを抱えています。
つまり、人との付き合い、社会との付き合いを分かっていない、知らない、
自分がそれをすることでどう思われるかに気付かないから
困りごとができてしまう、とも考えられるのです。
誰かに何かをお願いするのには
相手の都合を聞くのがマナーだし
手土産を持っていくのも礼儀です。
今の社会、そんなのコンプライアンスにひっかかる、という声もあるでしょうが
何かを持っていく、というのはお金をかけたものでなくても
「気持ち」です。
自分が作ったおやきとか、漬物、とか野菜、とか。
また、現代でこうしたことを、知らない、気付いていない人に伝えるのは
お寺が担うことなのかも、とも思うのです。
他の機関は気を使いすぎて(コンプライアンスとか)
言えないことがあるのかも。
お寺が「気持ち」で、というと分かりづらい、と言われてしまうのですが
はっきりと言えないのも仕方ないところです。
お金のない人にお金をこれだけ持ってきてください、とは言えないし
それを払えない人にはお経を読みません、とも言えないのです。
お経は定額ではなく、商品ではないのですから。
お金持ちの人は、たくさんお金をお渡ししたらよいと思うし(このお寺に払いたい、と思えば)
お金のない人は、モノや行動や気持ち、で良いのだと思います。
その「気持ち」を相手に渡すことが関係を円滑にすすめるうえでは
大切だと思います。
お金をもってこい、手土産持ってこい、ということではありません。
でも、そうした気持ちを伝えることをマナーや礼儀、というのなら
どこかへお邪魔し、出かけ、時間をとってもらい、世話になる際には
謝礼や手土産を渡すのが、やはり礼儀であり
社会で気持ちよい関係を築くのに必要なことだと思います。
万福寺さんの豆まき。
今年は2月8日(土)に開かれるようです。
もし参加してみたい、という方いらっしゃったら、
2月3日くらいまでにご連絡ください。
こうした場に出かける際は
「お灯明料」といっていくらかお包みすることがマナーです。
大体目安は地域差もあるでしょうが5千円くらいでしょうか。
そして、お供えのお菓子やお酒などを持っていくとさらに良いです。
自分が行ってみたいと思っても
お世話になるわけですから礼儀と言えます。
お寺にいると、いろいろな方がみえるので
この人はこちらの都合や意見は関係なく、
自分の都合だけで話や物事を考えているな、とか
この人は、いつも何も持ってこないな、ということを時々思います。
そして、すべてとは言いませんが、そうした人たちは何か困りごとを抱えています。
つまり、人との付き合い、社会との付き合いを分かっていない、知らない、
自分がそれをすることでどう思われるかに気付かないから
困りごとができてしまう、とも考えられるのです。
誰かに何かをお願いするのには
相手の都合を聞くのがマナーだし
手土産を持っていくのも礼儀です。
今の社会、そんなのコンプライアンスにひっかかる、という声もあるでしょうが
何かを持っていく、というのはお金をかけたものでなくても
「気持ち」です。
自分が作ったおやきとか、漬物、とか野菜、とか。
また、現代でこうしたことを、知らない、気付いていない人に伝えるのは
お寺が担うことなのかも、とも思うのです。
他の機関は気を使いすぎて(コンプライアンスとか)
言えないことがあるのかも。
お寺が「気持ち」で、というと分かりづらい、と言われてしまうのですが
はっきりと言えないのも仕方ないところです。
お金のない人にお金をこれだけ持ってきてください、とは言えないし
それを払えない人にはお経を読みません、とも言えないのです。
お経は定額ではなく、商品ではないのですから。
お金持ちの人は、たくさんお金をお渡ししたらよいと思うし(このお寺に払いたい、と思えば)
お金のない人は、モノや行動や気持ち、で良いのだと思います。
その「気持ち」を相手に渡すことが関係を円滑にすすめるうえでは
大切だと思います。
お金をもってこい、手土産持ってこい、ということではありません。
でも、そうした気持ちを伝えることをマナーや礼儀、というのなら
どこかへお邪魔し、出かけ、時間をとってもらい、世話になる際には
謝礼や手土産を渡すのが、やはり礼儀であり
社会で気持ちよい関係を築くのに必要なことだと思います。
2025年01月29日
氷河期世代と言われて〜お寺の役割〜
長野駅前で殺人事件が起きました。
事件を知った時には本当に驚き、
そして日常見慣れた景色が一変して恐ろしく感じました。
被害者の方、ご遺族にはかける言葉も見当たらず
ただただ、心よりお悔やみ申し上げます。
狭い地域ですので被害にあわれた方のお話や人柄も耳にすることもあり
サッカークラブで教わっていたんだ、とか
知り合いの方の息子さんであった、など
身近な話題であるからより、心が痛む思いがします。
容疑者もまた、生活圏が身近であり
何故、、といった声も聞かれます。
容疑者の男は46歳、独身無職。
生活保護を受けていたと新聞で知りました。
ニュースやネットで話しがでますが
この年代は、私も同年代ですが
就職氷河期世代と言われます。
バブルがはじけ、景気が悪く
就職しようにもできない。
契約社員でようやく仕事を見つけても
すぐに首を切られ、まともに社会保険にも加入できない。
そうするうちに職は自分の意に反して点々とならざるを得なく
履歴書にも転職したことを書くことすら嫌になってくる。
契約社員での環境は決して良いものではなく
そこで頑張って働いても今度はストレスでうつ病になったりすることも。
生活資金が安定しないから結婚なんて考えることもできずにそのままずるずると。
下の世代からはどんどん、IT技術のずっと高い新人が卒業してくるから、
いつまでも新人気取りでいられない。
戦後の焼け野原から這い上がった世代や
バブルでノリノリだった世代からしたら
そんなやつは根性が足りないとか
転職たくさんしてしょうもないやつと思われ
確かに難しい年代であるな、、と思う。
その世代でも、もちろんすべてがそうなわけではなく
普通に暮らしている人もいる。
苦しいことがあっても、いや、苦しいことがないことなんてないけれど皆、頑張っている。
容疑者は犯した罪は決して許されざることだけれど
昨日の我が身、明日の我が身、という気持ちを持たないでもない。
氷河期世代が皆同じではないけれど
寛容ではない今の社会がこのような犯人を作ってしまった一因もあるのでは、と思う。
私はこうした社会にお寺の役割が大切だと思う。
生きるのがつらい人や苦しい人はお寺に来たら良いと思う。
お寺で庭掃除や行事のお手伝いなどの、仕事をしたら良いと思う。
ただお寺に居るのではなく、作務をしたらよい。
ぜひ、そうしてもらいたい。
そうしていると、かならず、ありがとうと言ってもらえる。
ありがとう、と言ってもらえると自分がここにいて良い、存在意味があると
感じることができる。
例えば、玉泉寺の毎年3月にある初午星まつり。
檀家の人たちが高齢化して、お手伝いを毎年募集しているけれど
そうした場所で、お手伝いをしたら良いと思う。
みんなでワイワイと。食事付き。
参拝に来た人には「ご苦労様」、と言ってもらえる。
そうしているうちに
自分が得意なことをしていると有り難がれるし、重宝がられる。
ありがとう、助かったよ、また来てね、またおいで、そうした場所が必要なのではないだろうか。
実際、お寺としては本当に有り難いのだから。
そうした、皆、利害なく過ごす中で
自分の存在を自分が認めてあげればいいのではないかと思う。
そうした場所を提供するのには
お寺というのは、とても良いところだ。
現代のお寺は、そうした場の開放をすることも大切だと思うし
玉泉寺はそうした場所でありたいと思っている。
玉泉寺の親戚のお寺で、朝日村の古川寺、というお寺がある。
このお寺は地域の村寺として朝日村をまとめていて
また、お寺も村によって支えられている。
毎年正月の観音祭りには、老いも若きも地域の人たち皆でお手伝いをして
そして打ち上げ会もやり、それを楽しみにもしていて、
それぞれのできることを協力しながら祭りを支えている。
ある意味、現代には失われた
寛容な社会がお寺にはあるのだ。
ひと昔前の日本には、こうした生きづらさを感じる人や人との関わりが苦手な人にも居場所や椅子があって、地域の祭りや行事も、皆が活躍できる役割があったのだと思う。
そうした社会から、コスパタイパ、効率化であったり成果を重視する社会になっていき…
この競争から外れたら、明日は我が身、と思ってしまう人もいるのではないだろうか。
ぜひ、お寺へ行ってみたらいいと思う。
そして、自分のできることをやってみたらいい。
庭掃除でも、雪かきでも、感謝されることをやってみたらいい。
そして、ありがとう、といって、言われて、ごはんを一緒に食べたらいいと思う。
事件を知った時には本当に驚き、
そして日常見慣れた景色が一変して恐ろしく感じました。
被害者の方、ご遺族にはかける言葉も見当たらず
ただただ、心よりお悔やみ申し上げます。
狭い地域ですので被害にあわれた方のお話や人柄も耳にすることもあり
サッカークラブで教わっていたんだ、とか
知り合いの方の息子さんであった、など
身近な話題であるからより、心が痛む思いがします。
容疑者もまた、生活圏が身近であり
何故、、といった声も聞かれます。
容疑者の男は46歳、独身無職。
生活保護を受けていたと新聞で知りました。
ニュースやネットで話しがでますが
この年代は、私も同年代ですが
就職氷河期世代と言われます。
バブルがはじけ、景気が悪く
就職しようにもできない。
契約社員でようやく仕事を見つけても
すぐに首を切られ、まともに社会保険にも加入できない。
そうするうちに職は自分の意に反して点々とならざるを得なく
履歴書にも転職したことを書くことすら嫌になってくる。
契約社員での環境は決して良いものではなく
そこで頑張って働いても今度はストレスでうつ病になったりすることも。
生活資金が安定しないから結婚なんて考えることもできずにそのままずるずると。
下の世代からはどんどん、IT技術のずっと高い新人が卒業してくるから、
いつまでも新人気取りでいられない。
戦後の焼け野原から這い上がった世代や
バブルでノリノリだった世代からしたら
そんなやつは根性が足りないとか
転職たくさんしてしょうもないやつと思われ
確かに難しい年代であるな、、と思う。
その世代でも、もちろんすべてがそうなわけではなく
普通に暮らしている人もいる。
苦しいことがあっても、いや、苦しいことがないことなんてないけれど皆、頑張っている。
容疑者は犯した罪は決して許されざることだけれど
昨日の我が身、明日の我が身、という気持ちを持たないでもない。
氷河期世代が皆同じではないけれど
寛容ではない今の社会がこのような犯人を作ってしまった一因もあるのでは、と思う。
私はこうした社会にお寺の役割が大切だと思う。
生きるのがつらい人や苦しい人はお寺に来たら良いと思う。
お寺で庭掃除や行事のお手伝いなどの、仕事をしたら良いと思う。
ただお寺に居るのではなく、作務をしたらよい。
ぜひ、そうしてもらいたい。
そうしていると、かならず、ありがとうと言ってもらえる。
ありがとう、と言ってもらえると自分がここにいて良い、存在意味があると
感じることができる。
例えば、玉泉寺の毎年3月にある初午星まつり。
檀家の人たちが高齢化して、お手伝いを毎年募集しているけれど
そうした場所で、お手伝いをしたら良いと思う。
みんなでワイワイと。食事付き。
参拝に来た人には「ご苦労様」、と言ってもらえる。
そうしているうちに
自分が得意なことをしていると有り難がれるし、重宝がられる。
ありがとう、助かったよ、また来てね、またおいで、そうした場所が必要なのではないだろうか。
実際、お寺としては本当に有り難いのだから。
そうした、皆、利害なく過ごす中で
自分の存在を自分が認めてあげればいいのではないかと思う。
そうした場所を提供するのには
お寺というのは、とても良いところだ。
現代のお寺は、そうした場の開放をすることも大切だと思うし
玉泉寺はそうした場所でありたいと思っている。
玉泉寺の親戚のお寺で、朝日村の古川寺、というお寺がある。
このお寺は地域の村寺として朝日村をまとめていて
また、お寺も村によって支えられている。
毎年正月の観音祭りには、老いも若きも地域の人たち皆でお手伝いをして
そして打ち上げ会もやり、それを楽しみにもしていて、
それぞれのできることを協力しながら祭りを支えている。
ある意味、現代には失われた
寛容な社会がお寺にはあるのだ。
ひと昔前の日本には、こうした生きづらさを感じる人や人との関わりが苦手な人にも居場所や椅子があって、地域の祭りや行事も、皆が活躍できる役割があったのだと思う。
そうした社会から、コスパタイパ、効率化であったり成果を重視する社会になっていき…
この競争から外れたら、明日は我が身、と思ってしまう人もいるのではないだろうか。
ぜひ、お寺へ行ってみたらいいと思う。
そして、自分のできることをやってみたらいい。
庭掃除でも、雪かきでも、感謝されることをやってみたらいい。
そして、ありがとう、といって、言われて、ごはんを一緒に食べたらいいと思う。
2025年01月21日
義仲公 追善供養へ義仲寺
寿永3年(1184年)、1月21日(20日という説も)、木曽義仲は
滋賀県粟津が原にて源義経の兵に撃たれ、31歳の若さで亡くなりました。
その義仲公の法要を、毎年1月20日に
義仲のお墓のある滋賀県義仲寺と、首塚のある京都府法観寺にて
「義仲、巴ら勇士讃える会」主催のもと行っております。
玉泉寺の住職が導師として法要を行い、
今年、私も初めて追善法要へ参加させていただきました。
讃える会の会員の方が主に来られており、
30~40名ほどの参加者だったでしょうか。
20日の午前、義仲寺にて法要。
数年前、檀信徒旅行で義仲寺、三井寺など琵琶方面も訪ねましたが
再来することができました。
義仲のお墓、そして巴や松尾芭蕉のお墓に手を合わせ、
義仲寺内にある木曽八幡社にもお参り。
伊藤若冲の天井絵も。
場所を移し、京都は清水寺、三年坂途中に位置する法観寺へ。
通常は拝観ができないお寺ですが
建仁寺を兼務されているご住職がお越しくださり、義仲公首塚前にて法要を。
こちらのお寺は初めてでしたので、とてもワクワクし、拝見することができました。
法観寺内には稲荷社もあり、興味深かったです。
シンボルタワー的な法観寺の五重塔内は、問い合わせれば内覧することもできるのだとか。
調べてみると、天武朝時代の寺院。
次回はよりじっくりと拝観したいと思いました。
法要後、すぐに帰路についたため
外国人観光客で賑わう三年坂に後ろ髪をひかれながら慌ただしく京都駅へと戻りました。
今回、義仲のご縁で滋賀、京都法要へと参りました。
今もなお、こうして法要が営まれ、
その歴史や思いが受け継がれていることに感動もしました。
会員の高齢化もあり、讃える会では、随時会員を募集中であるとか。
法要含め、こうした活動も知られていくと良いなと思いましたし(実際、若い人の参加も目立ちました)
寺院を拝観するにしても、その背景や歴史を知ると
魅力が増しますのでぜひ、そうした歴史が広がればと、そして
義仲の人となりが広まり、義仲ファンが増えればと思うのであります

滋賀県粟津が原にて源義経の兵に撃たれ、31歳の若さで亡くなりました。
その義仲公の法要を、毎年1月20日に
義仲のお墓のある滋賀県義仲寺と、首塚のある京都府法観寺にて
「義仲、巴ら勇士讃える会」主催のもと行っております。
玉泉寺の住職が導師として法要を行い、
今年、私も初めて追善法要へ参加させていただきました。
讃える会の会員の方が主に来られており、
30~40名ほどの参加者だったでしょうか。
20日の午前、義仲寺にて法要。
数年前、檀信徒旅行で義仲寺、三井寺など琵琶方面も訪ねましたが
再来することができました。
義仲のお墓、そして巴や松尾芭蕉のお墓に手を合わせ、
義仲寺内にある木曽八幡社にもお参り。
伊藤若冲の天井絵も。
場所を移し、京都は清水寺、三年坂途中に位置する法観寺へ。
通常は拝観ができないお寺ですが
建仁寺を兼務されているご住職がお越しくださり、義仲公首塚前にて法要を。
こちらのお寺は初めてでしたので、とてもワクワクし、拝見することができました。
法観寺内には稲荷社もあり、興味深かったです。
シンボルタワー的な法観寺の五重塔内は、問い合わせれば内覧することもできるのだとか。
調べてみると、天武朝時代の寺院。
次回はよりじっくりと拝観したいと思いました。
法要後、すぐに帰路についたため
外国人観光客で賑わう三年坂に後ろ髪をひかれながら慌ただしく京都駅へと戻りました。
今回、義仲のご縁で滋賀、京都法要へと参りました。
今もなお、こうして法要が営まれ、
その歴史や思いが受け継がれていることに感動もしました。
会員の高齢化もあり、讃える会では、随時会員を募集中であるとか。
法要含め、こうした活動も知られていくと良いなと思いましたし(実際、若い人の参加も目立ちました)
寺院を拝観するにしても、その背景や歴史を知ると
魅力が増しますのでぜひ、そうした歴史が広がればと、そして
義仲の人となりが広まり、義仲ファンが増えればと思うのであります
