2016年01月26日

動物たちは

雪が降って
いろんな動物たちの足跡を発見。







この寒いのに、動物たちは
凍えながらもたくましく生きているんだな。

どこへ帰っていくんだろう。
足跡は山の中へ消えていく。

先日行った、動物園。
お猿さんたちも身を寄せ合っていた。





 


Posted by 玉泉寺 at 15:02 | Comments(0) | 暮らし
 

2016年01月25日

軽井沢スキーバス事故をうけて

今月、15日に軽井沢でスキーバス事故が起こりました。
10代から30代の若者が乗車していて、犠牲者も主に若者でした。
連日、ニュースや新聞などで報道がされていますが
夢や将来がある若者が犠牲になったことに
本当に本当に胸が痛みます。

また、親御さんやご家族の気持ちを思うと
本当にお辛いだろうと、苦しくなります。

どんな言葉をかけても、今、心は沈み
晴れることはないかもしれません。

願うのは、この事故が教訓となり
第2、第3の犠牲が出ないように
前へ進んでいくことしかありません。

先日関連するニュースを見ていたら
献花に訪れていた年配の男性が
こんなコメントをしていました。
その日は、ちょうど事故から一週間。
「今日は事故から7日。
初七日だで、手ぐらい合わせに来てやりたかった。」

仏教では、中陰の思想(四十九日の思想)というものがあります。
この世とあの世の間には
四十九日の時間、距離があって、
七日ごとに仏様の教えをいただいて導かれたり
閻魔様から裁きを受けたりしながら来世の行き先が決められます。
四十九日にやっと成仏して極楽浄土へと旅立っていくと言われています。

一般的には四十九日にこの世との別れ、無事に極楽浄土に行けるようにとの法要を行います。
また、亡くなってから百日後の百カ日は
「卒哭忌(そつこくき)」といい、
泣くことをやめ、悲しみに区切りをつけて
進んでいくことを示しています。

本当にあの世があるのか、閻魔様がいるのか、
それは私たちにはわかりませんが
せめて魂が穏やかに旅立っていけるよう、手を合わせたいと思います。
そして残されたご家族には、百カ日といわずとも、
どこかで区切りをつけて
前に向かって進んで欲しいと願います。

人生の中で、苦しいことはたくさんあるけれど
その中の一つに「愛別離苦(あいべつりく)」があるとお釈迦様はいいました。
どんなに愛しい者であっても、命あるものはいつかは別れなければなりません。
また、仏教では宿業という言葉があります。
業というのは宿命というような意味ですが
人はそれぞれ、業を負いながら、生きなければいけないのです。
人生は苦しく辛く、思いのままにならないことの連続です。

「犀の角のようにただ独り歩め」。

これもお釈迦様の言葉ですが、
「犀の角」とは、孤独ということ。
ただ、孤独の中を孤独と戦いながら歩みなさい、ということです。

人生は苦しく辛い。孤独ではないように見えて、皆、孤独です。
それをただ、歩みなさい、というのです。

一見、突き放されたような、厳しい言葉にも聞こえます。
でも私は、とても的を得ているように聞こえます。
つまるところ、
何かにすがっても、自分で歩むしかない。
それしかないのだと思います。

ご家族の皆様が前を向いて歩めますよう。
犠牲になられた皆様のご冥福を心よりお祈りし、
もう2度と、このような事故が起きないように
心から願っています。











 


Posted by 玉泉寺 at 15:50 | Comments(0) | お寺
 

2016年01月18日

古川寺 厄除け観音祭

長野県朝日村にある古川寺(こせんじ)は、玉泉寺とは
住職が兄弟同士、親戚関係にあるお寺です。

毎年1月には古川寺の厄除け観音祭のお手伝いに行くことが
恒例となっております。

厄除け観音祭りについての詳しい記事はこちら↓
http://gyokusenji.naganoblog.jp/d2015-01-18.html


今年、私はお手伝いには行かれませんでしたが
一日だけ新年のご挨拶も兼ねて
行ってまいりました。

毎年お馴染みの顔が揃っていて嬉しくなりましたface02face02
一年に一度、このお祭りの時だけ会う人たちもいるけど
それもまた楽しい。
お寺というところを知らなかった私が
初めてお寺の良さを一番最初に感じたところです。

玉泉寺とは環境も雰囲気も違うけれど
見習いたいところがたくさんです。

3月には玉泉寺の初午護摩法要も行われます。
今年は3月13日(日)。

玉泉寺のように、超限界集落となり
地域のマンパワーが圧倒的に欠けている場所では
お祭りや行事の運営には難しい局面に
立たされておりますが、
そんな課題とも向き合いながら
皆さんの力を借りてやっております。
今後、ますますその課題は大きくなっていくと思いますが
お手伝いしてくださる方がいらっしゃれば大変有難いです。
ぜひ、ご連絡くださいface01face01
お待ちしておりますm(_ _)m

もちろん、諸祈願のお札も受け付けていますので
ご希望の方は玉泉寺までご連絡をお待ちしておりますface01face01

☎026-262-4222
soratera@apost.plala.or.jp





 


Posted by 玉泉寺 at 23:43 | Comments(0) | お寺
 

2016年01月13日

お寺の奥さんは大変か

お寺の嫁だというと、「大変じゃない??」と
必ず言われます。
お寺の奥さん=大変、という方程式がどうやらあるようです。

奥さんの忙しさ、大変さは
そのお寺や環境によって、だいぶ違うと思います。

規模の大きいお寺や小さいお寺、
観光寺かそうでないお寺、
街のお寺や田舎のお寺、
専業寺か兼業寺(住職が他の仕事をしている)など、
そのお寺によって違います。
お寺によっては奥さんも外で働いている場合もありますし
住職の考え方にもよると思います。

また、何をもって大変とするかも人によって違います。

私の場合は、お寺に嫁いで「大変」と感じたことはありません。
もちろん、あー、大変。忙しい。、というようなことはありますが
お寺だから特別に忙しく大変、ということはありません。

それは、お寺の奥さんも一つの仕事として考えているからかもしれません。
主婦といえば、やってることは主婦みたいなことだけど
お寺の奥さんもまた、仕事と思っています。

例えば、会社員にしても学校の先生にしてもお店の店員にしても
何をやるにしても、仕事は大変なことがあります。
楽で楽しいことばかりではありません。
それと同じで、お寺の奥さんも
他の仕事と同じように、
楽しいこともあれば大変なこともある、
というだけのことです。

お寺の奥さんの何が大変って、
思うに人付き合い、と思われる方が多いのではないでしょうか。
あとはお勝手仕事。
この二つに関しては、向き不向きがあるかもしれません。
ありがたいことに私は、
人に会うこともお勝手仕事もそんなに苦にならないので
よかったのですが
それもお寺によって違うところで、
お寺の規模が大きくて業者さんが全てやってくれて
お料理がそんなにできなくても大丈夫、という奥さんもいらっしゃいました。

また、都会や街のお寺ですと
雑草などが生えないところもあったりして
庭の掃除はだいぶ楽なんじゃないかな~、と
これは山寺としては羨ましく思ったりします。

私個人のことを言えば、
街のお寺でテキパキするよりも
超がつくほど山のお寺で
ご近所のじいちゃんばあちゃんと
漬物を教えてもらったりしながら
お茶を飲んでいるほうが合っているような気がします。

あと、大変なことといえば
奥さんに限らずですが、
24時間365日体勢、ということ。
朝早くに来られる方も、夜遅くに来られる方もいらっしゃいますし、
「この日に死にます!」といってきちんと死んでくれる人もいません笑。
明日にでも死にそうだ、と連絡が入っても、あれから5年・・・という場合だって。
自分の都合がつきにくい、ということが
私は一番慣れませんでした。

サービス業の人は同じかもしれませんが
土日が主に忙しかったりするので
子供が出来てからは外に出かけてあげられないこともあります。

大変ではありますが
どれも仕事と思うと、もっと大変な仕事は世の中にたくさんあると思うのです。

今、世の中はお寺ブームだそうで
寺女、と呼ばれる女子たちもいるそうです。
副住職いわく、
自分が若い頃は、お寺ですというだけでドン引きされる時代だったのに
時代は変わったなぁと言います。
お寺や宗教をブームにしてよいのかどうかは分かりませんが
ブームが来る、ということは当然ブームが去る、ということもあるわけですので
それにうかうかしていられない、とも。

そのブームにのって、お寺のお嫁さんになりたい!という女子も
どうやら増えているそうです。
お寺に限らず、お嫁さんに来て欲しいお宅は
日本中にたくさんあると思いますが
「お寺の奥さんって、大変そうだから・・・」、と倦厭せずに
むしろ楽しんで奥さんをしたいと思います。









 


Posted by 玉泉寺 at 13:49 | Comments(0) | お寺 | 暮らし | 子育て
 

2016年01月09日

お葬式の意味

近頃、家族葬、直葬というものが
本当に多くなりました。

新聞のお悔やみ欄を見ても、家族だけで済ませた旨が
よく記載されています。
家族や親族などの血縁、地域社会との地縁が薄れている現代、
時代の流れですので家族葬、直葬を選択される方が
増えているというのも
納得できますし、分かります。

しかし、私がお寺にいて
ご葬儀やご遺族と関わっている中で、
「お葬式」というものは大切なものなのだ、と感じますし
その思いは強くなるばかりです。

亡くなられたあとは、長野の場合一般的には
お通夜、火葬、お葬式、お斎となりますが
(地域によっても違いますが)
直葬の場合は、お通夜、葬儀、お斎が簡略化され
家族で簡単に済ますものと言われています。

血縁、地縁が強かった昔は、お通夜は自宅で。
ご近所さんや縁の深かった人たちが集まり
故人を偲びお参りし、裏方としてもお手伝いし、
家族がお通夜にみえられた方をもてなす、
地域で故人をお見送りする
という意味がありました。

今は、病院で亡くなる方も多いですし、
マンションやアパートで暮らす方もいて
お通夜を自宅ではなく葬儀場で行う方が多くなりました。
それに伴い、家族がもてなす、ということは少なくなり
お金を払って、葬儀会社の人にお願いすることが主流となりました。

お通夜もお葬式も、多くの方を呼ばずに
ひっそりとされる方が増えました。
それは、呼ぶほうも呼ばれるほうも忙しかったり
都合がつきづらかったり、
または関わりの面倒くささからくるものかもしれません。
寿命がのび、現役時代から何年もたったので
人付き合いも少なくなっているというのも
理由として上げられています。

昔は地域の世話役みたいなおじいさんがいて、
どこどこの誰々さんが亡くなった、というと
段取りをしてくれて、こういうときはこうするもんだ、と教えてくれていたといいます。
でも今はそんな付き合いもなくなっている中で
葬儀会社の人にお願いするようになりました。

そうなってきていることは自然の流れだと思いますし
昔のように、といっても無理だし難しいことも分かります。
そして、そんな中で家族葬が増えていくことも。

だけれど、お通夜やお葬式の意味を知ることは
とても大切なことだと思います。

よく、「自分の葬式はやらなくていい」、という人がいますが
私はお寺にいるうちに、
お葬式というのは亡くなった人のためのものでなく
ご家族やご遺族のためのものでもあると思うようになりました。
どのように亡くなった人を送りたいか。

お葬式の大きい小さいではない、
大きくたって小さくたっていいですし、
本来お葬式には定価がありません。
お金があればあるように、なければないなりに
いくらだってできるのです。

お葬式はお金を払って
葬儀会社の人にやってもらうサービスなのではなく
家族が、生前○○がお世話になりました、と縁のある人にお礼をするお通夜と、残された自分たちが故人を偲んで区切りをつけ、
今生きている自分たちが協力して頑張るという明日へ繋げるステップとなり、親が亡くなったのなら、最後の親孝行であるとも言えます。

生前、どんなに憎たらしい親だったとしても
小さいなりにご葬儀をあげ、喜ばれたご家族もいます。
やっと、母と和解出来ましたと言っていたのが印象的でした。
その後もよく、手を合わせにお寺にみえられます。

お通夜を行わないのには様々な意見がありますが
弔問に訪れたくても伺えない、といった声も聞かれます。
やはり、その場合はその人は気持ちの整理や区切りがつけられないままなのだと思います。

年末年始に亡くなられる方が昨年、今年は多くありました。
葬儀場ではなく、玉泉寺でのご葬儀も2件ほどありました。
うまく言えませんが
場所はともかく、お葬式を行うことで
ご家族のまとまりや気持ちの整理というのはやはり違うのではないかと思うのです。
命のリレーと、お坊さんはよくお話になりますが
生きている命を持つ私たちが、それを感じ協力していくことのように思います。
そして、お葬式のあとにみんなで食事をする(お斎)、
お酒を飲む、というのは
やはりそれも、まとまりだったり、区切りに関係することのように
思えます。
なんだそんな事、と思われるかもしれませんが
食事を共にするということは大切です。
亡くなられた方の遺影を前に食事をし、お酒を飲むのです。

また、小さい子供にとっても「死」というものに
触れる経験というのは大切だと思います。
お通夜を自宅でされる場合は、この間まで生きていた人と
一緒にひと晩過ごすことでもあります。
不思議ではありますが
子供にとっては、その不思議さが命の大切さを感じ取る時間になるのではないでしょうか。

その一方で、お葬式の時は泣いていてもお斎が始まると
お酒がまわって、ワイワイ賑やかになることもあります。
子供にとって、悲しいけれど悲しいだけではない思い出にもなるでしょう。

お葬式だけでなく、様々な生活様式が
時代の変化によって変わっています。
昔が良くて今がダメ、ということでもありません。
なぜ、それが昔からずっと行われてきたかという
意味を知ることがとても大切です。

形が変わっても、その意味を受け止めていれば
時代に応じたことができるはず。

それには、私たちお寺の人間の努力も大切です。
それを伝える世話役じいさんがいなくなった今、その役目をするのは
お寺でもあります。
全く会わないお坊さんになんだか分からないお経を唱えられて
高いお金を支払うのも、変な感じがします。
菩提寺があるのなら、
お坊さんに会いに行ってみることも良いかもしれません。
日頃の他愛のない話をする中で、
このお坊さんなら、自分が死んだ時にお経を読んでもらいたい!
供養してもらいたい!と
思えるかもしれません。

近所のおじさんは、4歳になる息子を見て
「おう、坊主。俺が死んだらお経を上げてくれ」、と言っていました。
普通の会話の中のひとコマなのでしょうが
そういう普段からの付き合いが
昔ながらの世話役じいさん、ではないですが
安心感を持たせてあげられるのかもしれません。

副住職が話していましたが
「村八分」、という言葉の意味を皆さんご存知でしょうか。
村八分、仲間はずれ、というような意味ですが
残りの二分は?

「火事と葬式」、なのだそうです。
昔は、たとえ村八分で仲間はずれにされていても
火事と葬式のときは村のみんなが協力して助け合う、という意味が
あったのだそうです。
村八分はいけませんが、
火事・葬儀は例外であるという昔の強い倫理観。
それは、継承すべきであるし、失ってはいけない考え方。
今一度、葬儀自体を考えさせられた年末年始でもありました。








 


Posted by 玉泉寺 at 11:20 | Comments(2) | お寺
 

2016年01月08日

新年明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。
今年もどうぞ、よろしくお願い致します。

新年も慌ただしさが一段落し、ホっと一息。
皆さんは、どんなお年とりだったでしょうか。
家族や友人と、ゆっくりできましたでしょうか。

ニュースなどで帰省ラッシュ、海外旅行ラッシュなどと聞くと
私は一生、新年はここで迎える運命なんだわ~と改めて思いますicon10
新年にハワイとか行ってみたいなぁと思ってみても夢なのでしたicon11

今年は暖冬のため、玉泉寺にも全く雪がなく
二年参り、新年のお参りなどで来られるお客様も比較的多く
賑やかな大晦日、新年となりました。

雪かきをする手間がないだけ
楽なのですが、こうおかしな気候が続くと
それもまた不安に思います。


さて、昨日7日はどんど焼きでした。
調べてみると、どんど焼きは1月15日の小正月に行われることが本来なのだそうですが
ここでは、毎年7日に行われています。
時代の流れによって、15日前後の日曜日に行う地域も多いようです。

お正月の松飾りを外して、一年の無病息災、地域の安泰を願い
だるまや書き初めなども一緒に燃やします。





地域によってどんど焼きの呼び名が違い、
長野県でも松本の方では、三九郎と言うようです。

このあたりでは子供は我が家の息子一人。
昔は子供もたくさんいたんだよーと聞きますが
こんな山奥でも、子供がたくさんいて賑やかだったら
多少不便でもそれはそれで楽しかったんじゃないかと思います。

もっと賑やかだったらなぁと思いますが
毎度のじいちゃんばあちゃんの顔ぶれが
元気に今年も集まってくれて良かったと思います。

ひとしきり燃える火を見守ったあと、
さて、それじゃあ今年もよろしくね、と挨拶をして
どんど焼きが終わりました。

今年も良い一年となりますように!









 


Posted by 玉泉寺 at 11:56 | Comments(0) | お寺 | 暮らし | 子育て | ソラテラ