2020年09月30日
ずくだせテレビ 峰街道取材!
SBCずくだせテレビの取材がありました。
またもや峰の道話題ですが
峰街道を歩く、という企画の中で
ポカスカジャン大久保さん、
玉泉寺にも立ち寄って下さいました!
お母様が小川村出身なんだそうで。
地元話に花が咲き
木曽義仲ゆかりの寺…
境内から広がるアルプスの景色。
少しの滞在、取材でしたが
峰街道の魅力が伝わると良いと思います
これからハイキングシーズンなので、
景色を楽しみつつ歩かれてみては???
あ!放送日いつなのか、聞くの忘れた

小さくて分かりづらいけど、旭観音を拝観するの図
またもや峰の道話題ですが
峰街道を歩く、という企画の中で
ポカスカジャン大久保さん、
玉泉寺にも立ち寄って下さいました!
お母様が小川村出身なんだそうで。
地元話に花が咲き

木曽義仲ゆかりの寺…
境内から広がるアルプスの景色。
少しの滞在、取材でしたが
峰街道の魅力が伝わると良いと思います

これからハイキングシーズンなので、
景色を楽しみつつ歩かれてみては???

あ!放送日いつなのか、聞くの忘れた


小さくて分かりづらいけど、旭観音を拝観するの図
2020年09月29日
小川村 フレンチレストラン「リュイソウ」!
玉泉寺から車で10分ほど行くと
立屋、という桜の名所であり
アルプスのよく見える場所があります。
峰街道、昔の街道の立屋の関所。
かつては関所があった所です。
その場所に、アイターンで移住されたご夫婦が、
「リュイソウ」、というレストランを始められました

古民家を改装し、現在は土日のみの営業ですが
ゆくゆくは民泊やゲストハウスも考えているそう。
りんご農家として畑にも出ているのだとか。
同じ子育て世代ということもあり頼もしい!
先日は、お斎をこちらのリュイソウさんで。
副住職が伺わせて頂きました
最近はこぢんまりした少人数のご法事が多いので、
堅苦しくなく、こうした田舎のカフェレストランでの
お斎もいいかも…
新しいお斎のカタチ…
こんな山奥に居て、近くにレストランがあるなんてイイ!!
ちなみにリュイソウ、とはフランス語で小川、という意味。
だんだんと、こうした山中にも移住される人がいたり
目が向いてきた感を最近は特に感じます。
お客さんでいつも満席の様子。
わざわざ、ここまで来る意味。
話題性もありますが
安らぎを与えるんじゃないかなあと感じています。
場所は少し迷いますが、それもお楽しみということで。ぜひ!
https://ruisseau-ogawa.jp/



立屋、という桜の名所であり
アルプスのよく見える場所があります。
峰街道、昔の街道の立屋の関所。
かつては関所があった所です。
その場所に、アイターンで移住されたご夫婦が、
「リュイソウ」、というレストランを始められました


古民家を改装し、現在は土日のみの営業ですが
ゆくゆくは民泊やゲストハウスも考えているそう。
りんご農家として畑にも出ているのだとか。
同じ子育て世代ということもあり頼もしい!
先日は、お斎をこちらのリュイソウさんで。
副住職が伺わせて頂きました

最近はこぢんまりした少人数のご法事が多いので、
堅苦しくなく、こうした田舎のカフェレストランでの
お斎もいいかも…
新しいお斎のカタチ…
こんな山奥に居て、近くにレストランがあるなんてイイ!!
ちなみにリュイソウ、とはフランス語で小川、という意味。
だんだんと、こうした山中にも移住される人がいたり
目が向いてきた感を最近は特に感じます。
お客さんでいつも満席の様子。
わざわざ、ここまで来る意味。
話題性もありますが
安らぎを与えるんじゃないかなあと感じています。
場所は少し迷いますが、それもお楽しみということで。ぜひ!
https://ruisseau-ogawa.jp/



2020年09月19日
おかげさま
先日、六波羅蜜シリーズ「布施」の本を読んでいたら
こんな事が書いてありました。
おかげさま、の言葉が滅多に口から出ない人は
自分を不幸だと思っている事が多く、
おかげさま、と言う人は少なくともその時点で自分を幸せだと思っている人が多いということ。
幸せな時間を多くしたければ
できるだけ多くの「おかげ」に気づき、
感謝すればよいのです。
感謝することと幸せを感じることは
比例するのです。
仏教の説く幸せとは
心が乱れていない状態をさします。
波のない穏やかな海に月の明かりがさすような状態です。
お金があるとか健康だとか言うことではありません。
お金があっても、もっともっとと思ったり
病気が怖く不安になるのも幸せとは言いません。
いつどんな事がおこっても、
心穏やかな状態が幸せだと仏教では考えます。
************************
確かに、
悩んだり、人を恨んだりする人と
おかげさまで、と言う言葉はくっつかないように思います。
逆に、物事が上手くいっていて前向きな人は
おかげさまで、と言っているかも、と
思いを巡らせてみました。
幸せだからおかげさま、と言うのか
おかげさま、と言っているから幸せなのか。
どちらが先なんでしょうね。
どちらだと思いますか?
毎日の小さなおかげに気づく事が
幸せの一歩なのだと感じました。
こんな事が書いてありました。
おかげさま、の言葉が滅多に口から出ない人は
自分を不幸だと思っている事が多く、
おかげさま、と言う人は少なくともその時点で自分を幸せだと思っている人が多いということ。
幸せな時間を多くしたければ
できるだけ多くの「おかげ」に気づき、
感謝すればよいのです。
感謝することと幸せを感じることは
比例するのです。
仏教の説く幸せとは
心が乱れていない状態をさします。
波のない穏やかな海に月の明かりがさすような状態です。
お金があるとか健康だとか言うことではありません。
お金があっても、もっともっとと思ったり
病気が怖く不安になるのも幸せとは言いません。
いつどんな事がおこっても、
心穏やかな状態が幸せだと仏教では考えます。
************************
確かに、
悩んだり、人を恨んだりする人と
おかげさまで、と言う言葉はくっつかないように思います。
逆に、物事が上手くいっていて前向きな人は
おかげさまで、と言っているかも、と
思いを巡らせてみました。
幸せだからおかげさま、と言うのか
おかげさま、と言っているから幸せなのか。
どちらが先なんでしょうね。
どちらだと思いますか?
毎日の小さなおかげに気づく事が
幸せの一歩なのだと感じました。
2020年09月18日
古い版木に姿勢を正す
富士見町のオオカミのお札展に
出張してきた玉泉寺の三峯さんの木版。
展示会を担当されたSさんが、
拓本をお願いしたい、ということで
お寺に来られました。

三峯のオオカミのお札だけでなく、
コロナ禍で、玉泉寺の蔵から発見された木版なども
見ていただきました。
全国を回り、様々なお札に触れているSさんですが
ここまで種類豊富な木版が残されているのは珍しいそう。
修験密教の寺院であり、
その昔は祈祷の際にも使われていたのだろうと話されました。
確かに、玉泉寺のお札は
オオカミのお札に、牛馬安全、
お蚕さんのお札、牛頭天王、お稲荷さん、
その他にも、文字盤や梵字のものも。
副住職が子供の頃は
正月に配るお札を
摩耶子ばあちゃんや、近所のおじいさんたちが
手刷りして作っていたのだとか。
40年ほど前までは、現役だった版木たち。
お蚕さんのお札は比較的新しいと思うのですが
なかなかお目にかかれないのだそう。
廃寺になると、真っ先に手放すのは
版木類なのだそうで、現存するのは貴重なのだと言います。
お札が残されているのは
幸いにも火災にあわなかった事もあるが、
修験密教の寺院でこうした山の中で
無住にならず、お寺が在り、
お札が守られていることが大変珍しいとSさんが
感激しながら話されていました。
記録からも古く、鎌倉室町の時代から歴史の残る玉泉寺。
知れば知るほど、その歴史の長さ深さに驚くのですが
秘境と言われるこの地に在りながらも
脈々と受け継がれてきた法灯を
私達も護り、継いでいるという思いを改に感じ
より一層、身の引き締まる思いがしました。
玉泉寺の古いお札たちを眺めながら
これからも頑張るぞと思ったのでした!

出張してきた玉泉寺の三峯さんの木版。
展示会を担当されたSさんが、
拓本をお願いしたい、ということで
お寺に来られました。

三峯のオオカミのお札だけでなく、
コロナ禍で、玉泉寺の蔵から発見された木版なども
見ていただきました。
全国を回り、様々なお札に触れているSさんですが
ここまで種類豊富な木版が残されているのは珍しいそう。
修験密教の寺院であり、
その昔は祈祷の際にも使われていたのだろうと話されました。
確かに、玉泉寺のお札は
オオカミのお札に、牛馬安全、
お蚕さんのお札、牛頭天王、お稲荷さん、
その他にも、文字盤や梵字のものも。
副住職が子供の頃は
正月に配るお札を
摩耶子ばあちゃんや、近所のおじいさんたちが
手刷りして作っていたのだとか。
40年ほど前までは、現役だった版木たち。
お蚕さんのお札は比較的新しいと思うのですが
なかなかお目にかかれないのだそう。
廃寺になると、真っ先に手放すのは
版木類なのだそうで、現存するのは貴重なのだと言います。
お札が残されているのは
幸いにも火災にあわなかった事もあるが、
修験密教の寺院でこうした山の中で
無住にならず、お寺が在り、
お札が守られていることが大変珍しいとSさんが
感激しながら話されていました。
記録からも古く、鎌倉室町の時代から歴史の残る玉泉寺。
知れば知るほど、その歴史の長さ深さに驚くのですが
秘境と言われるこの地に在りながらも
脈々と受け継がれてきた法灯を
私達も護り、継いでいるという思いを改に感じ
より一層、身の引き締まる思いがしました。
玉泉寺の古いお札たちを眺めながら
これからも頑張るぞと思ったのでした!


2020年09月09日
お墓をつくること
近年墓じまい、という言葉を
よく耳にするようになりました。
自分のあと、お墓を守る人がいないから墓を小さくする、
家族が皆遠くにいるからお墓を移す、
というように。
お墓をつくるにあたっても
今までのように伝統的なお墓ではなく
樹木葬や永代供養墓、合祀墓など
いろんな形、様式のお墓があります。
暮らし方が多様化しているので
お墓の在り方もそれと同様であるのは
自然の流れでもあると思います。
最近玉泉寺では
お墓を造られる方が、何組かいらっしゃいました。
その何組かの方を見ていて、
また、お話を聞いて感じたことがあります。
いつか来る未来に自分が入るお墓が在る、というのは
とても安心感をもたらすのだということ。
もちろん、お父さんお母さんが亡くなって、
埋葬するのに必要、という現実的な面もありますが
自らの最終的な居場所が在ると思う事って
大切なんじゃないかな、と感じました。
墓じまい、というとマイナスのイメージ、
墓を継ぐ、守る、というと負担になる、
あとに残された家族に負担を負わせるという
後ろ向きなイメージを想像しがちですが
お墓をつくられた皆さんは
晴れ晴れとしていました。
決して、墓を守るのは
負担ではないと思うのです。
それを負担と思う事が悲しいな、と思います。
親孝行、したい時に親はなし、と言いますが
今までのお墓を守るのも
墓じまいして、違う形に移すにしても
考えて、どうにかしていくことが
親孝行であったり
ご先祖さまを供養することではないかと
思うのです。
また、お墓をつくるということは
自分の周りの家族、親族に思いを巡らせ
更にその先の世代についても必然的に
考えるわけですから
自分が生まれてきたルーツ、
感謝を感じるのではないでしょうか。
先にも書いたように
最終的に自分の眠る場所が用意されている、というのは
安心感があるのだと思います。
お墓に関することを
負担ではなく、感謝を感じながら
携われる事が本来なのではないかと思います。
よく耳にするようになりました。
自分のあと、お墓を守る人がいないから墓を小さくする、
家族が皆遠くにいるからお墓を移す、
というように。
お墓をつくるにあたっても
今までのように伝統的なお墓ではなく
樹木葬や永代供養墓、合祀墓など
いろんな形、様式のお墓があります。
暮らし方が多様化しているので
お墓の在り方もそれと同様であるのは
自然の流れでもあると思います。
最近玉泉寺では
お墓を造られる方が、何組かいらっしゃいました。
その何組かの方を見ていて、
また、お話を聞いて感じたことがあります。
いつか来る未来に自分が入るお墓が在る、というのは
とても安心感をもたらすのだということ。
もちろん、お父さんお母さんが亡くなって、
埋葬するのに必要、という現実的な面もありますが
自らの最終的な居場所が在ると思う事って
大切なんじゃないかな、と感じました。
墓じまい、というとマイナスのイメージ、
墓を継ぐ、守る、というと負担になる、
あとに残された家族に負担を負わせるという
後ろ向きなイメージを想像しがちですが
お墓をつくられた皆さんは
晴れ晴れとしていました。
決して、墓を守るのは
負担ではないと思うのです。
それを負担と思う事が悲しいな、と思います。
親孝行、したい時に親はなし、と言いますが
今までのお墓を守るのも
墓じまいして、違う形に移すにしても
考えて、どうにかしていくことが
親孝行であったり
ご先祖さまを供養することではないかと
思うのです。
また、お墓をつくるということは
自分の周りの家族、親族に思いを巡らせ
更にその先の世代についても必然的に
考えるわけですから
自分が生まれてきたルーツ、
感謝を感じるのではないでしょうか。
先にも書いたように
最終的に自分の眠る場所が用意されている、というのは
安心感があるのだと思います。
お墓に関することを
負担ではなく、感謝を感じながら
携われる事が本来なのではないかと思います。
2020年09月02日
学校の先生 教員に望むこと
玉泉寺に、時々訪れるYさん。
元教員です。
以前は教員をされていたのですが、
訳あって辞めてしまわれたそうです。
北信の雪深い場所で
林業や半農半Xの暮らしをされていますが、
本当にパワフルで型破りです。
自分で稲を育て、野菜を作り
木を切り、薪をつくる。
お寺でも、山の木を切るときに
Yさんにお願いして切ってもらいました。
チェンソーも使いますが、斧も使います。
ダイナミックです。
その一方で、俳句をよみ
フランス語やドイツ語を勉強し
ニーチェやヤスパースなどの哲学者に精通して
哲学を読む会をお住まいの市内で主宰するなど
真逆の一面もあるのです。
遠くの市からも参加者があるそうです。
そんなYさんが、
自分の日記、徒然に思うことをしたためた
本というか冊子を上梓し、
私達のもとにも届きました。
日々、自然と対峙しながら
その中で生きる実感であったり
生かされている感謝の心であったり
また、その中で交わる人との交流を慈しむ様子が
書かれていて、とても良いなぁと感じました。
「教員」という枠組みの中では
Yさんは異色なのかもしれません。
でも、マニアックではあるけど枠にはまらない、型破りな、
こんな先生が今の時代こそ
必要なのではないかと思いました。
もし私が学生なら、
Yさんのような先生に学びたかったと思います。
勉強だけではない、生きるうえで大切なことを
全身を使って伝えようとしてくれる先生が、
自ら実践している先生が、
子どもたちの身近にいてくれる事を
この本を読んで強く思いました。
元教員です。
以前は教員をされていたのですが、
訳あって辞めてしまわれたそうです。
北信の雪深い場所で
林業や半農半Xの暮らしをされていますが、
本当にパワフルで型破りです。
自分で稲を育て、野菜を作り
木を切り、薪をつくる。
お寺でも、山の木を切るときに
Yさんにお願いして切ってもらいました。
チェンソーも使いますが、斧も使います。
ダイナミックです。
その一方で、俳句をよみ
フランス語やドイツ語を勉強し
ニーチェやヤスパースなどの哲学者に精通して
哲学を読む会をお住まいの市内で主宰するなど
真逆の一面もあるのです。
遠くの市からも参加者があるそうです。
そんなYさんが、
自分の日記、徒然に思うことをしたためた
本というか冊子を上梓し、
私達のもとにも届きました。
日々、自然と対峙しながら
その中で生きる実感であったり
生かされている感謝の心であったり
また、その中で交わる人との交流を慈しむ様子が
書かれていて、とても良いなぁと感じました。
「教員」という枠組みの中では
Yさんは異色なのかもしれません。
でも、マニアックではあるけど枠にはまらない、型破りな、
こんな先生が今の時代こそ
必要なのではないかと思いました。
もし私が学生なら、
Yさんのような先生に学びたかったと思います。
勉強だけではない、生きるうえで大切なことを
全身を使って伝えようとしてくれる先生が、
自ら実践している先生が、
子どもたちの身近にいてくれる事を
この本を読んで強く思いました。