2019年09月24日
お寺参りのひと時
お寺にお参りに来て下さった、Sさんご夫妻。
子どもたちが庭で遊んでいたので
その流れで、庭先でお茶をのんで頂くことになりました。
涼しくなり過ごしやすくなった今は、外も気持ちがいいのです。
曇り空でアルプスは見えなかったけれど、
外で遊び回る子どもを横に
お寺の庭で採れた梅の梅漬けと、出来立てのウリ粕漬けで
お茶を一杯。

お寺の居間とはまた違った場所で喜んでいただき、
ゆっくりとお話ができて良かったです。
この庭を作ったのは2、3年ほど前になりますが
お寺参りに来られた方と、こうして外でお茶をのむのも
よりリラックスしてもらったり、山の自然を感じてもらえるので
とても良かったなぁと思います。
帰り際には、裏庭の栗拾いも。
お墓の下に栗の木があるので、
お彼岸には、お墓参りに来られた皆さんにも、拾っていってもらいました


また是非、お寄りください

いつでもお待ちしています
子どもたちが庭で遊んでいたので
その流れで、庭先でお茶をのんで頂くことになりました。
涼しくなり過ごしやすくなった今は、外も気持ちがいいのです。
曇り空でアルプスは見えなかったけれど、
外で遊び回る子どもを横に
お寺の庭で採れた梅の梅漬けと、出来立てのウリ粕漬けで
お茶を一杯。
お寺の居間とはまた違った場所で喜んでいただき、
ゆっくりとお話ができて良かったです。
この庭を作ったのは2、3年ほど前になりますが
お寺参りに来られた方と、こうして外でお茶をのむのも
よりリラックスしてもらったり、山の自然を感じてもらえるので
とても良かったなぁと思います。
帰り際には、裏庭の栗拾いも。
お墓の下に栗の木があるので、
お彼岸には、お墓参りに来られた皆さんにも、拾っていってもらいました


また是非、お寄りください


いつでもお待ちしています

2019年09月22日
三毒を考える
少し前の新聞に、
「放課後子どもプラザの閉館時間を遅くしてほしい、
残業したくても、子どものお迎えに間に合わないから、残業できない。」
と読者からの声がありました。
放課後子どもプラザとは、学校が終わった後、子どもを預かる
児童センターのこと。
新聞によると、この女性は昼間は製造業、夜は飲食店の仕事を掛け持ちし、
もし残業ができれば、深夜に及ぶ飲食店の仕事を減らせる、と書いてあります。
女性の夫は夜勤の仕事をしているそうです。
女性が定時の5時半に仕事を終えて、プラザの利用を30分延長して
6時半にお迎えにいくそうですが、残業をして、7時お迎えにしたいけれど、
プラザが6時半までだと嘆いているのです。
「働く母親が働きやすい環境を市につくってほしい」と訴えているといいます。
この女性の背景が見えないので、なんとも言えませんが
昼間も働き、夜も働き、夫も働いている。
普通に考えたら、これで十分なのではないのか?と思うのですが。
十分に、働いていると思う。
仕事が大好きなのかな?
それとも、もっと働かなければ経済的にも暮らしが成り立たないのでしょうか?
そうなのだとしたら、残業ができる体制に整えて、とお願いするよりも
それだけ働いているのだから、十分暮らせるようにしてください、と
お願いする方が良いのではないでしょうか。
両親ともに普通に十分に働いているのに、まだ足りないとは
おかしいような気がします。
放課後子どもプラザに時間延長の希望が多く出ていると新聞には出ていますが
その背景は何なのか。
ただ、やみくもに、そうした願いが出ているから時間延長するのではなく
(時間延長するのも税金ですし)
なぜ必要以上に働かなければ暮らせないのかを、しっかり検討してほしいと思います。
また一方で。
現代は、暮らし方、お金の使い方、使い道も少し変わってきていると感じます。
例えば、お金がないと言っている人ほど
高い車に乗っていたり、携帯電話につぎ込んでいたり、
身の丈に外れているような、「ハテナ?」と思うような。
「三毒」という言葉があります。
三毒とは、「貪瞋痴」(とんじんち)を指します。
貪(とん)は、むさぼるということ。際限なく欲しがり、必要以上に求めることです。
瞋(じん・しん)とは、自己中心的に怒ること。怒り、憎しむことです。
痴(ち)とは、愚かさ。物事の道理に暗く、実体のないものを真実のように思いこむこと。
暮らしていけない!おかしい!と思うのであれば
声に出すべきですが、
際限なく必要以上に欲しがり、大切なものをおざなりにしてしまうことは
三毒にあたるのだと思います。
自分の持っている分を有り難いと思い、健やかに暮らしていける
社会や精神であれば良いな、と思います。
「放課後子どもプラザの閉館時間を遅くしてほしい、
残業したくても、子どものお迎えに間に合わないから、残業できない。」
と読者からの声がありました。
放課後子どもプラザとは、学校が終わった後、子どもを預かる
児童センターのこと。
新聞によると、この女性は昼間は製造業、夜は飲食店の仕事を掛け持ちし、
もし残業ができれば、深夜に及ぶ飲食店の仕事を減らせる、と書いてあります。
女性の夫は夜勤の仕事をしているそうです。
女性が定時の5時半に仕事を終えて、プラザの利用を30分延長して
6時半にお迎えにいくそうですが、残業をして、7時お迎えにしたいけれど、
プラザが6時半までだと嘆いているのです。
「働く母親が働きやすい環境を市につくってほしい」と訴えているといいます。
この女性の背景が見えないので、なんとも言えませんが
昼間も働き、夜も働き、夫も働いている。
普通に考えたら、これで十分なのではないのか?と思うのですが。
十分に、働いていると思う。
仕事が大好きなのかな?
それとも、もっと働かなければ経済的にも暮らしが成り立たないのでしょうか?
そうなのだとしたら、残業ができる体制に整えて、とお願いするよりも
それだけ働いているのだから、十分暮らせるようにしてください、と
お願いする方が良いのではないでしょうか。
両親ともに普通に十分に働いているのに、まだ足りないとは
おかしいような気がします。
放課後子どもプラザに時間延長の希望が多く出ていると新聞には出ていますが
その背景は何なのか。
ただ、やみくもに、そうした願いが出ているから時間延長するのではなく
(時間延長するのも税金ですし)
なぜ必要以上に働かなければ暮らせないのかを、しっかり検討してほしいと思います。
また一方で。
現代は、暮らし方、お金の使い方、使い道も少し変わってきていると感じます。
例えば、お金がないと言っている人ほど
高い車に乗っていたり、携帯電話につぎ込んでいたり、
身の丈に外れているような、「ハテナ?」と思うような。
「三毒」という言葉があります。
三毒とは、「貪瞋痴」(とんじんち)を指します。
貪(とん)は、むさぼるということ。際限なく欲しがり、必要以上に求めることです。
瞋(じん・しん)とは、自己中心的に怒ること。怒り、憎しむことです。
痴(ち)とは、愚かさ。物事の道理に暗く、実体のないものを真実のように思いこむこと。
暮らしていけない!おかしい!と思うのであれば
声に出すべきですが、
際限なく必要以上に欲しがり、大切なものをおざなりにしてしまうことは
三毒にあたるのだと思います。
自分の持っている分を有り難いと思い、健やかに暮らしていける
社会や精神であれば良いな、と思います。
2019年09月19日
お寺でのご法事の良さとは…
先日、ご葬儀、ご法事を葬儀センターで行うことが多くなった昨今ですが、
あえてお寺で行うことの良さはあるか、
との問いを受け改めて、思い返したことを書いてみます。
例えばご葬儀、ご法事の際、手が空いたとき、ご家族の方と
「おばあちゃんは腰が痛いと言いながらも、よくお参りに来てくれました」、
「雪かきや落ち葉たきをしてもらいました、ここの屋根のトヨも直してくれました」、などと話し
ご家族の方は、「おばあちゃん、そうだったんですね」
「手先が器用で、何でも直してしまう人だったから」、と言って
故人の思い出話をすることがあります。
そして、おばあちゃんが歩いたであろう廊下や階段、庭先を自分も歩いてみたり
直してくれた屋根のトヨをじっくりと眺めたりします。
そうすることによって今いる自分も、故人を思い出し、同じ空間にいると感じたり
何となく、たどったであろう温もりを感じたりするのだと思います。
玉泉寺は、登ってきてしまえばいい場所なので

この眺めの中のご法事は、それだけでも喜ばれたりしますが
お寺でのご法事の良さとは、
在りし日の故人の温もりに触れることができるのも一つかな、と思いました。
あえてお寺で行うことの良さはあるか、
との問いを受け改めて、思い返したことを書いてみます。
例えばご葬儀、ご法事の際、手が空いたとき、ご家族の方と
「おばあちゃんは腰が痛いと言いながらも、よくお参りに来てくれました」、
「雪かきや落ち葉たきをしてもらいました、ここの屋根のトヨも直してくれました」、などと話し
ご家族の方は、「おばあちゃん、そうだったんですね」
「手先が器用で、何でも直してしまう人だったから」、と言って
故人の思い出話をすることがあります。
そして、おばあちゃんが歩いたであろう廊下や階段、庭先を自分も歩いてみたり
直してくれた屋根のトヨをじっくりと眺めたりします。
そうすることによって今いる自分も、故人を思い出し、同じ空間にいると感じたり
何となく、たどったであろう温もりを感じたりするのだと思います。
玉泉寺は、登ってきてしまえばいい場所なので


この眺めの中のご法事は、それだけでも喜ばれたりしますが
お寺でのご法事の良さとは、
在りし日の故人の温もりに触れることができるのも一つかな、と思いました。
2019年09月12日
2019 10月ソラテラのお知らせ
10月のソラテラは
「お釈迦さま涅槃図の絵解き会」です。
絵解きって何??という方の為に・・・
絵解きとは。主に仏教絵画の内容や絵に込められたメッセージを
分かり易く説くことを言います。
今回のソラテラでは涅槃図(ねはんず)というお釈迦さまが亡くなられた場面を
描いた絵があるのですが、涅槃図を説明、解説していただきます。
今回、玉泉寺で絵解きをしてくださるのは、
長野市篠ノ井塩崎の長谷寺ご住職奥様、岡澤恭子さんです。
岡澤さんは、絵解き師として全国を駆け巡っておられます。
長谷寺さまのホームページはコチラ www.hasedera.net/
この度、ソラテラで絵解きをやろうと思ったのは、
岡澤さんが、とある雑誌に絵解きの寄稿をされていて
それを読んで、私が大変感銘を受け、ぜひ絵解きをお願いしたいと思ったのです。
以下、その文章から一部抜粋し、紹介いたします。
沙羅双樹の木の下で北枕で横に臥すお釈迦さまの周りには
お弟子さんや、動物たちが集まって、悲しんでいる様子が描かれています。
その一人ひとりに物語があり、そこに描きこまれた物語は、
絵解きの扉が開いていくにつれ、お釈迦さまの深い慈悲と
生きる知恵に満ちた言葉とともに、ありありと語られていきます。
~
文字で読むのとは違って、絵を見ながら
語り聞く絵解きでは、自分が今まさにそこにいるかのような
不思議な臨場感、一体感を味わうことがあります。
「聴いているうちに涅槃図が立体的に見えてきた」
「お釈迦さまが私に向けて語ってくださった」と仰って下さる方がいます。
お釈迦さまが直接、私のために語ってくださる。
だから、お釈迦さまのお言葉が深々と胸にしみてくる。
ただ絵の説明で終わってはならない。
そこに宗教的な魂がなければならない、とされる絵解きをこれからも伝えていきます。
・・・・・・・・
私も、絵解きは聞いたことがありません。
ですから10月のソラテラがとても楽しみです。
長谷寺さまでは、一年に一度、3月15日の涅槃会に絵解きを聴くことができます。
しかし、日常ではなかなか絵解きを聴く機会がありませんので
ぜひ、この機会に足を運んで頂き
多くの皆様にお釈迦さまの温かいお言葉、尊い教えを感じていただけたらと思います。
自分で言うのも何ですが、とても貴重な良い機会だと思います!
チャンスですよ!!
たくさんの皆さまのご参加を心よりお待ちしております。
******************
■日時 10月20日(日) 10時開場 10時半開演 来月は20日です!ご注意ください!
■場所 信州新町 玉泉寺
■会費 1000円 (昼食付 こちらでご用意いたします)
■予約・お問い合わせ
090-5993-3514 笠原
今回のソラテラは、予約制となります。
5日前までのご予約をお願いいたします。
どうぞお誘いあわせのうえ、お越しいただけたら嬉しいです

「お釈迦さま涅槃図の絵解き会」です。
絵解きって何??という方の為に・・・
絵解きとは。主に仏教絵画の内容や絵に込められたメッセージを
分かり易く説くことを言います。
今回のソラテラでは涅槃図(ねはんず)というお釈迦さまが亡くなられた場面を
描いた絵があるのですが、涅槃図を説明、解説していただきます。
今回、玉泉寺で絵解きをしてくださるのは、
長野市篠ノ井塩崎の長谷寺ご住職奥様、岡澤恭子さんです。
岡澤さんは、絵解き師として全国を駆け巡っておられます。
長谷寺さまのホームページはコチラ www.hasedera.net/
この度、ソラテラで絵解きをやろうと思ったのは、
岡澤さんが、とある雑誌に絵解きの寄稿をされていて
それを読んで、私が大変感銘を受け、ぜひ絵解きをお願いしたいと思ったのです。
以下、その文章から一部抜粋し、紹介いたします。
沙羅双樹の木の下で北枕で横に臥すお釈迦さまの周りには
お弟子さんや、動物たちが集まって、悲しんでいる様子が描かれています。
その一人ひとりに物語があり、そこに描きこまれた物語は、
絵解きの扉が開いていくにつれ、お釈迦さまの深い慈悲と
生きる知恵に満ちた言葉とともに、ありありと語られていきます。
~
文字で読むのとは違って、絵を見ながら
語り聞く絵解きでは、自分が今まさにそこにいるかのような
不思議な臨場感、一体感を味わうことがあります。
「聴いているうちに涅槃図が立体的に見えてきた」
「お釈迦さまが私に向けて語ってくださった」と仰って下さる方がいます。
お釈迦さまが直接、私のために語ってくださる。
だから、お釈迦さまのお言葉が深々と胸にしみてくる。
ただ絵の説明で終わってはならない。
そこに宗教的な魂がなければならない、とされる絵解きをこれからも伝えていきます。
・・・・・・・・
私も、絵解きは聞いたことがありません。
ですから10月のソラテラがとても楽しみです。
長谷寺さまでは、一年に一度、3月15日の涅槃会に絵解きを聴くことができます。
しかし、日常ではなかなか絵解きを聴く機会がありませんので
ぜひ、この機会に足を運んで頂き
多くの皆様にお釈迦さまの温かいお言葉、尊い教えを感じていただけたらと思います。
自分で言うのも何ですが、とても貴重な良い機会だと思います!
チャンスですよ!!
たくさんの皆さまのご参加を心よりお待ちしております。
******************
■日時 10月20日(日) 10時開場 10時半開演 来月は20日です!ご注意ください!
■場所 信州新町 玉泉寺
■会費 1000円 (昼食付 こちらでご用意いたします)
■予約・お問い合わせ
090-5993-3514 笠原
今回のソラテラは、予約制となります。
5日前までのご予約をお願いいたします。
どうぞお誘いあわせのうえ、お越しいただけたら嬉しいです


2019年09月11日
2019 9月 ソラテラでした
9月9日は、ソラテラを開催しました。
中国人ママさんによる、揚げパン講座。
以前、頂いた時にとても美味しくて、
その味に惚れて、作り方を教えてもらおうと企画しました!
材料、味わい、作り方はとてもシンプル。
ただ、生地を成形するのにコツがいりました


切って、伸ばして、ねじって、丸めて・・・・
上手くできるのには、何回か練習が必要

やっぱり、美味しいものには秘密があるのね~!!
子どもたちも、一緒にコネコネしました。
お土産で持って帰ってもらうほど、たくさん、みんなで作りましたよ!
優しく、懐かしい味わいに大満足です。



新じゃがをたくさん頂いたので、和風ポトフと、ジャガイモのガレットも!
モロッコインゲンのごま和えも、その場でパパっと作ってもらいました

食卓が賑やかになりました。いつもいつも、ありがとうございます^^
みんなでいただきまーーす!
小さい子どもたちにも来てもらって、さらに賑やかなソラテラとなりました。
ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。
また是非、来てくださいね!
中国人ママさんによる、揚げパン講座。
以前、頂いた時にとても美味しくて、
その味に惚れて、作り方を教えてもらおうと企画しました!
材料、味わい、作り方はとてもシンプル。
ただ、生地を成形するのにコツがいりました



切って、伸ばして、ねじって、丸めて・・・・
上手くできるのには、何回か練習が必要


やっぱり、美味しいものには秘密があるのね~!!
子どもたちも、一緒にコネコネしました。
お土産で持って帰ってもらうほど、たくさん、みんなで作りましたよ!
優しく、懐かしい味わいに大満足です。

新じゃがをたくさん頂いたので、和風ポトフと、ジャガイモのガレットも!
モロッコインゲンのごま和えも、その場でパパっと作ってもらいました


食卓が賑やかになりました。いつもいつも、ありがとうございます^^
みんなでいただきまーーす!
小さい子どもたちにも来てもらって、さらに賑やかなソラテラとなりました。
ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。
また是非、来てくださいね!
2019年09月07日
長々ナスビ
頂きました、長ーーーーーいナス!
長々ナス、と言うんだそうです。
長いナスは頂いたこともありましたが
今回のナスは、カラフルなこと!
黄緑に白!
我が家はもっぱら、蒸かしナスに生姜醤油でいただきますが
みずみずしくって、美味しいです。
とてもカラフルだし、その見た目もインパクトあるので
レストランに持っていったら喜ばれるんじゃないかなぁと思いました



Tさん、ご馳走様でした!!
長々ナス、と言うんだそうです。
長いナスは頂いたこともありましたが
今回のナスは、カラフルなこと!
黄緑に白!
我が家はもっぱら、蒸かしナスに生姜醤油でいただきますが
みずみずしくって、美味しいです。
とてもカラフルだし、その見た目もインパクトあるので
レストランに持っていったら喜ばれるんじゃないかなぁと思いました



Tさん、ご馳走様でした!!

2019年09月05日
「子ども」は「未来」
ある雑誌の、こんな記事が目に留まりました。
沖縄に移住した人の投稿でした。
沖縄には無人島を含めると160余りの島があると言われていますが
人の住んでいる島は45ほどだそうで、
その島々をひとつずつ、ゆっくり廻ったのだそうです。
その島廻りで気づいたことは、島は小さな国であり、その国で生きていくには
人々はルールを決め、助け合って生きていくのです。
そのために、もっとも重要なものは、水。
そして食料、医療。
しかし、それらは何とかなっていく。
それ以上に重要なものがあることに、この人は気づかされたそうで、
それは「子ども」という存在でした。
子どもが無ければ島の暮らし、島の未来はなくなってしまう。
子どもの存在が=イコール、未来そのものになる。
どの島も、いのちを大切にしているし
子どもは文字通り「宝」である、と改めて気づいたというのです。
昨今では、子どもを産みましょうと、簡単に言える世の中ではありません。
でも、その記事にあるように、とても単純に、
子どもは未来そのものなのですから、子どもがいない社会というのは存在しえないのだと思います。
子どもを産む、ということと
女性への差別だとか、
うみたいのに産めない人もいるのに軽率だ、とか
働き方の問題だとか、言われていますが
そうしたこととは少し別の話のように思います。
産まれなければ増えないのに
子どもを産もう、という言葉が絶対禁句、タブーになっている風潮が恐ろしいなぁと思ってしまいます。
それは、女性だけに投げかけられるべき言葉ではありませんが。
女性が過剰に反応してしまっているのか??
そのくせ、「出生率を上げる」、という言葉は特に批判を受けない。
全く同じ意味なのに。
気持ちの問題もあるのかな。
「そんなつもりではありませんでした」、と謝罪する政治家がたくさんいますが
たしかに、その立場で、それはダメでしょ、と思うものの
その政治家が、本当に「そんなつもり」で言ったのではないとも思うのですが。
子どもを産む=女性任せ、ではなくて
産み、その後、どう育てるか(今なら夫が育児したり、シッターさん雇ったり、子連れ出勤したり、子育て環境の整備いろいろ)、は
色々議論をしなければだと思うし、
女性だけの問題では絶対になく、「宝」「未来」を育てる社会全体の問題ですが
それゆえに、子どもを産む、増やす、という言葉がここまで嫌厭されるのは
変だなぁ、おそろしいなぁと思ってしまうのは、私だけでしょうか。
沖縄に移住した人の投稿でした。
沖縄には無人島を含めると160余りの島があると言われていますが
人の住んでいる島は45ほどだそうで、
その島々をひとつずつ、ゆっくり廻ったのだそうです。
その島廻りで気づいたことは、島は小さな国であり、その国で生きていくには
人々はルールを決め、助け合って生きていくのです。
そのために、もっとも重要なものは、水。
そして食料、医療。
しかし、それらは何とかなっていく。
それ以上に重要なものがあることに、この人は気づかされたそうで、
それは「子ども」という存在でした。
子どもが無ければ島の暮らし、島の未来はなくなってしまう。
子どもの存在が=イコール、未来そのものになる。
どの島も、いのちを大切にしているし
子どもは文字通り「宝」である、と改めて気づいたというのです。
昨今では、子どもを産みましょうと、簡単に言える世の中ではありません。
でも、その記事にあるように、とても単純に、
子どもは未来そのものなのですから、子どもがいない社会というのは存在しえないのだと思います。
子どもを産む、ということと
女性への差別だとか、
うみたいのに産めない人もいるのに軽率だ、とか
働き方の問題だとか、言われていますが
そうしたこととは少し別の話のように思います。
産まれなければ増えないのに
子どもを産もう、という言葉が絶対禁句、タブーになっている風潮が恐ろしいなぁと思ってしまいます。
それは、女性だけに投げかけられるべき言葉ではありませんが。
女性が過剰に反応してしまっているのか??
そのくせ、「出生率を上げる」、という言葉は特に批判を受けない。
全く同じ意味なのに。
気持ちの問題もあるのかな。
「そんなつもりではありませんでした」、と謝罪する政治家がたくさんいますが
たしかに、その立場で、それはダメでしょ、と思うものの
その政治家が、本当に「そんなつもり」で言ったのではないとも思うのですが。
子どもを産む=女性任せ、ではなくて
産み、その後、どう育てるか(今なら夫が育児したり、シッターさん雇ったり、子連れ出勤したり、子育て環境の整備いろいろ)、は
色々議論をしなければだと思うし、
女性だけの問題では絶対になく、「宝」「未来」を育てる社会全体の問題ですが
それゆえに、子どもを産む、増やす、という言葉がここまで嫌厭されるのは
変だなぁ、おそろしいなぁと思ってしまうのは、私だけでしょうか。
2019年09月01日
ごちゃまぜ玉泉寺
お寺には、いろんな人が来られます。
お寺の話をすると
「お寺って、普段、そんなに人来るの?」
「誰でも行っていいの?」
「何しに、みんな来てるの?」などなど、聞かれます。
お寺によっても違うのでしょうし、
私は玉泉寺しか知らないのですが
玉泉寺の場合は、お客さんが来られない日もありますが
平均して毎日のように来られます。
住職が元教員であり、様々な相談をされる方が多くいらっしゃいます。
そして檀家さんもふらりと話にきてくれたりします。
山の上でお寺の看板をみつけ、やってきてくれる方もいます。
あとは、檀家さんでもないけれど、顔を出してくれる人たちもいます。
大体は、いつ来たいか、来るのかの連絡を受けてお待ちしますが
そうでなく、突然来られる時もあります。
そうした場合は、掃除をしていたり、何かバタバタしているときは
ゆっくり話ができないこともありますが
話をしたい、聞きたいという気持ちはこちらにはあります。
相談の人は、相談ですが
あとは、何でも、自分や身の回りのことの話をされる人も
野菜や花を持ってきてくれる人も
掃除をしてくれる人もいます。
ですから、玉泉寺には
普段も人が来ますし、誰でも来てもらって構いません。
皆さん、お話に来られるのです。
「そんなのお寺に話に行くの?」
「お寺って、何でも屋だね」、とはよく言われます。
そうなんです、お寺って何でも屋なのかもしれない。
確かに、お寺にわざわざ話にくることでもないのかもしれませんが
他の人に相談しにくいこと、悲しい辛いこと、
意外と話せる場が少ないのかもしれません。
驚かれますが、恋愛相談や、結婚の相談も多いのです。
お寺に、恋愛や結婚の相談するの?とも言われますが
最近は結婚式までの流れを聞かれる方も。
結納どうする?親族紹介は?などなど。
私が思うに、お寺の利点は
広く、偏りがなく、色々な視点で観られる、ということがあると思います。
様々な立場、生き方の人たちが訪れて、話をするということは
「こういう人もいるよ、こういうケースもあるよ」とお応えできます。
悩んでいる人なんかは、別のケースもあるんだよ、という話をしたとたん
パッと顔が明るくなって
「なぁんだ、自分の悩みなんて、ちっぽけですね!」と
笑いながら帰っていったこともありました。
悩みや辛さに面しているとき、それにがんじがらめになってしまうのが
ほとんどです。
自分一人ばかりが、辛い、大変な目に遭っていると思ってしまう。
でも、肩の力を抜いて広く見渡してみると、
みんなそんなものだったりする、自分なんて大したことない、ということがよくあります。
もちろん、悩むには原因があって
その原因を治さないとならない場合もありますが。
お寺には、いろんな立場、生き方の人が来ると書きましたが
お寺では、上も下も、できるできないもない、そんな空気があるような気がします。
みんな一緒、いろんなものが、ごちゃまぜ。
価値観というのは一つではなくて
それぞれが皆、違う価値観をもっていていいし、当たり前です。
自分の価値観があり、他人のそれも受け入れられるごちゃまぜ感がいいと思います。
お寺の話をすると
「お寺って、普段、そんなに人来るの?」
「誰でも行っていいの?」
「何しに、みんな来てるの?」などなど、聞かれます。
お寺によっても違うのでしょうし、
私は玉泉寺しか知らないのですが
玉泉寺の場合は、お客さんが来られない日もありますが
平均して毎日のように来られます。
住職が元教員であり、様々な相談をされる方が多くいらっしゃいます。
そして檀家さんもふらりと話にきてくれたりします。
山の上でお寺の看板をみつけ、やってきてくれる方もいます。
あとは、檀家さんでもないけれど、顔を出してくれる人たちもいます。
大体は、いつ来たいか、来るのかの連絡を受けてお待ちしますが
そうでなく、突然来られる時もあります。
そうした場合は、掃除をしていたり、何かバタバタしているときは
ゆっくり話ができないこともありますが
話をしたい、聞きたいという気持ちはこちらにはあります。
相談の人は、相談ですが
あとは、何でも、自分や身の回りのことの話をされる人も
野菜や花を持ってきてくれる人も
掃除をしてくれる人もいます。
ですから、玉泉寺には
普段も人が来ますし、誰でも来てもらって構いません。
皆さん、お話に来られるのです。
「そんなのお寺に話に行くの?」
「お寺って、何でも屋だね」、とはよく言われます。
そうなんです、お寺って何でも屋なのかもしれない。
確かに、お寺にわざわざ話にくることでもないのかもしれませんが
他の人に相談しにくいこと、悲しい辛いこと、
意外と話せる場が少ないのかもしれません。
驚かれますが、恋愛相談や、結婚の相談も多いのです。
お寺に、恋愛や結婚の相談するの?とも言われますが
最近は結婚式までの流れを聞かれる方も。
結納どうする?親族紹介は?などなど。
私が思うに、お寺の利点は
広く、偏りがなく、色々な視点で観られる、ということがあると思います。
様々な立場、生き方の人たちが訪れて、話をするということは
「こういう人もいるよ、こういうケースもあるよ」とお応えできます。
悩んでいる人なんかは、別のケースもあるんだよ、という話をしたとたん
パッと顔が明るくなって
「なぁんだ、自分の悩みなんて、ちっぽけですね!」と
笑いながら帰っていったこともありました。
悩みや辛さに面しているとき、それにがんじがらめになってしまうのが
ほとんどです。
自分一人ばかりが、辛い、大変な目に遭っていると思ってしまう。
でも、肩の力を抜いて広く見渡してみると、
みんなそんなものだったりする、自分なんて大したことない、ということがよくあります。
もちろん、悩むには原因があって
その原因を治さないとならない場合もありますが。
お寺には、いろんな立場、生き方の人が来ると書きましたが
お寺では、上も下も、できるできないもない、そんな空気があるような気がします。
みんな一緒、いろんなものが、ごちゃまぜ。
価値観というのは一つではなくて
それぞれが皆、違う価値観をもっていていいし、当たり前です。
自分の価値観があり、他人のそれも受け入れられるごちゃまぜ感がいいと思います。