2016年01月09日
お葬式の意味
近頃、家族葬、直葬というものが
本当に多くなりました。
新聞のお悔やみ欄を見ても、家族だけで済ませた旨が
よく記載されています。
家族や親族などの血縁、地域社会との地縁が薄れている現代、
時代の流れですので家族葬、直葬を選択される方が
増えているというのも
納得できますし、分かります。
しかし、私がお寺にいて
ご葬儀やご遺族と関わっている中で、
「お葬式」というものは大切なものなのだ、と感じますし
その思いは強くなるばかりです。
亡くなられたあとは、長野の場合一般的には
お通夜、火葬、お葬式、お斎となりますが
(地域によっても違いますが)
直葬の場合は、お通夜、葬儀、お斎が簡略化され
家族で簡単に済ますものと言われています。
血縁、地縁が強かった昔は、お通夜は自宅で。
ご近所さんや縁の深かった人たちが集まり
故人を偲びお参りし、裏方としてもお手伝いし、
家族がお通夜にみえられた方をもてなす、
地域で故人をお見送りする
という意味がありました。
今は、病院で亡くなる方も多いですし、
マンションやアパートで暮らす方もいて
お通夜を自宅ではなく葬儀場で行う方が多くなりました。
それに伴い、家族がもてなす、ということは少なくなり
お金を払って、葬儀会社の人にお願いすることが主流となりました。
お通夜もお葬式も、多くの方を呼ばずに
ひっそりとされる方が増えました。
それは、呼ぶほうも呼ばれるほうも忙しかったり
都合がつきづらかったり、
または関わりの面倒くささからくるものかもしれません。
寿命がのび、現役時代から何年もたったので
人付き合いも少なくなっているというのも
理由として上げられています。
昔は地域の世話役みたいなおじいさんがいて、
どこどこの誰々さんが亡くなった、というと
段取りをしてくれて、こういうときはこうするもんだ、と教えてくれていたといいます。
でも今はそんな付き合いもなくなっている中で
葬儀会社の人にお願いするようになりました。
そうなってきていることは自然の流れだと思いますし
昔のように、といっても無理だし難しいことも分かります。
そして、そんな中で家族葬が増えていくことも。
だけれど、お通夜やお葬式の意味を知ることは
とても大切なことだと思います。
よく、「自分の葬式はやらなくていい」、という人がいますが
私はお寺にいるうちに、
お葬式というのは亡くなった人のためのものでなく
ご家族やご遺族のためのものでもあると思うようになりました。
どのように亡くなった人を送りたいか。
お葬式の大きい小さいではない、
大きくたって小さくたっていいですし、
本来お葬式には定価がありません。
お金があればあるように、なければないなりに
いくらだってできるのです。
お葬式はお金を払って
葬儀会社の人にやってもらうサービスなのではなく
家族が、生前○○がお世話になりました、と縁のある人にお礼をするお通夜と、残された自分たちが故人を偲んで区切りをつけ、
今生きている自分たちが協力して頑張るという明日へ繋げるステップとなり、親が亡くなったのなら、最後の親孝行であるとも言えます。
生前、どんなに憎たらしい親だったとしても
小さいなりにご葬儀をあげ、喜ばれたご家族もいます。
やっと、母と和解出来ましたと言っていたのが印象的でした。
その後もよく、手を合わせにお寺にみえられます。
お通夜を行わないのには様々な意見がありますが
弔問に訪れたくても伺えない、といった声も聞かれます。
やはり、その場合はその人は気持ちの整理や区切りがつけられないままなのだと思います。
年末年始に亡くなられる方が昨年、今年は多くありました。
葬儀場ではなく、玉泉寺でのご葬儀も2件ほどありました。
うまく言えませんが
場所はともかく、お葬式を行うことで
ご家族のまとまりや気持ちの整理というのはやはり違うのではないかと思うのです。
命のリレーと、お坊さんはよくお話になりますが
生きている命を持つ私たちが、それを感じ協力していくことのように思います。
そして、お葬式のあとにみんなで食事をする(お斎)、
お酒を飲む、というのは
やはりそれも、まとまりだったり、区切りに関係することのように
思えます。
なんだそんな事、と思われるかもしれませんが
食事を共にするということは大切です。
亡くなられた方の遺影を前に食事をし、お酒を飲むのです。
また、小さい子供にとっても「死」というものに
触れる経験というのは大切だと思います。
お通夜を自宅でされる場合は、この間まで生きていた人と
一緒にひと晩過ごすことでもあります。
不思議ではありますが
子供にとっては、その不思議さが命の大切さを感じ取る時間になるのではないでしょうか。
その一方で、お葬式の時は泣いていてもお斎が始まると
お酒がまわって、ワイワイ賑やかになることもあります。
子供にとって、悲しいけれど悲しいだけではない思い出にもなるでしょう。
お葬式だけでなく、様々な生活様式が
時代の変化によって変わっています。
昔が良くて今がダメ、ということでもありません。
なぜ、それが昔からずっと行われてきたかという
意味を知ることがとても大切です。
形が変わっても、その意味を受け止めていれば
時代に応じたことができるはず。
それには、私たちお寺の人間の努力も大切です。
それを伝える世話役じいさんがいなくなった今、その役目をするのは
お寺でもあります。
全く会わないお坊さんになんだか分からないお経を唱えられて
高いお金を支払うのも、変な感じがします。
菩提寺があるのなら、
お坊さんに会いに行ってみることも良いかもしれません。
日頃の他愛のない話をする中で、
このお坊さんなら、自分が死んだ時にお経を読んでもらいたい!
供養してもらいたい!と
思えるかもしれません。
近所のおじさんは、4歳になる息子を見て
「おう、坊主。俺が死んだらお経を上げてくれ」、と言っていました。
普通の会話の中のひとコマなのでしょうが
そういう普段からの付き合いが
昔ながらの世話役じいさん、ではないですが
安心感を持たせてあげられるのかもしれません。
副住職が話していましたが
「村八分」、という言葉の意味を皆さんご存知でしょうか。
村八分、仲間はずれ、というような意味ですが
残りの二分は?
「火事と葬式」、なのだそうです。
昔は、たとえ村八分で仲間はずれにされていても
火事と葬式のときは村のみんなが協力して助け合う、という意味が
あったのだそうです。
村八分はいけませんが、
火事・葬儀は例外であるという昔の強い倫理観。
それは、継承すべきであるし、失ってはいけない考え方。
今一度、葬儀自体を考えさせられた年末年始でもありました。
本当に多くなりました。
新聞のお悔やみ欄を見ても、家族だけで済ませた旨が
よく記載されています。
家族や親族などの血縁、地域社会との地縁が薄れている現代、
時代の流れですので家族葬、直葬を選択される方が
増えているというのも
納得できますし、分かります。
しかし、私がお寺にいて
ご葬儀やご遺族と関わっている中で、
「お葬式」というものは大切なものなのだ、と感じますし
その思いは強くなるばかりです。
亡くなられたあとは、長野の場合一般的には
お通夜、火葬、お葬式、お斎となりますが
(地域によっても違いますが)
直葬の場合は、お通夜、葬儀、お斎が簡略化され
家族で簡単に済ますものと言われています。
血縁、地縁が強かった昔は、お通夜は自宅で。
ご近所さんや縁の深かった人たちが集まり
故人を偲びお参りし、裏方としてもお手伝いし、
家族がお通夜にみえられた方をもてなす、
地域で故人をお見送りする
という意味がありました。
今は、病院で亡くなる方も多いですし、
マンションやアパートで暮らす方もいて
お通夜を自宅ではなく葬儀場で行う方が多くなりました。
それに伴い、家族がもてなす、ということは少なくなり
お金を払って、葬儀会社の人にお願いすることが主流となりました。
お通夜もお葬式も、多くの方を呼ばずに
ひっそりとされる方が増えました。
それは、呼ぶほうも呼ばれるほうも忙しかったり
都合がつきづらかったり、
または関わりの面倒くささからくるものかもしれません。
寿命がのび、現役時代から何年もたったので
人付き合いも少なくなっているというのも
理由として上げられています。
昔は地域の世話役みたいなおじいさんがいて、
どこどこの誰々さんが亡くなった、というと
段取りをしてくれて、こういうときはこうするもんだ、と教えてくれていたといいます。
でも今はそんな付き合いもなくなっている中で
葬儀会社の人にお願いするようになりました。
そうなってきていることは自然の流れだと思いますし
昔のように、といっても無理だし難しいことも分かります。
そして、そんな中で家族葬が増えていくことも。
だけれど、お通夜やお葬式の意味を知ることは
とても大切なことだと思います。
よく、「自分の葬式はやらなくていい」、という人がいますが
私はお寺にいるうちに、
お葬式というのは亡くなった人のためのものでなく
ご家族やご遺族のためのものでもあると思うようになりました。
どのように亡くなった人を送りたいか。
お葬式の大きい小さいではない、
大きくたって小さくたっていいですし、
本来お葬式には定価がありません。
お金があればあるように、なければないなりに
いくらだってできるのです。
お葬式はお金を払って
葬儀会社の人にやってもらうサービスなのではなく
家族が、生前○○がお世話になりました、と縁のある人にお礼をするお通夜と、残された自分たちが故人を偲んで区切りをつけ、
今生きている自分たちが協力して頑張るという明日へ繋げるステップとなり、親が亡くなったのなら、最後の親孝行であるとも言えます。
生前、どんなに憎たらしい親だったとしても
小さいなりにご葬儀をあげ、喜ばれたご家族もいます。
やっと、母と和解出来ましたと言っていたのが印象的でした。
その後もよく、手を合わせにお寺にみえられます。
お通夜を行わないのには様々な意見がありますが
弔問に訪れたくても伺えない、といった声も聞かれます。
やはり、その場合はその人は気持ちの整理や区切りがつけられないままなのだと思います。
年末年始に亡くなられる方が昨年、今年は多くありました。
葬儀場ではなく、玉泉寺でのご葬儀も2件ほどありました。
うまく言えませんが
場所はともかく、お葬式を行うことで
ご家族のまとまりや気持ちの整理というのはやはり違うのではないかと思うのです。
命のリレーと、お坊さんはよくお話になりますが
生きている命を持つ私たちが、それを感じ協力していくことのように思います。
そして、お葬式のあとにみんなで食事をする(お斎)、
お酒を飲む、というのは
やはりそれも、まとまりだったり、区切りに関係することのように
思えます。
なんだそんな事、と思われるかもしれませんが
食事を共にするということは大切です。
亡くなられた方の遺影を前に食事をし、お酒を飲むのです。
また、小さい子供にとっても「死」というものに
触れる経験というのは大切だと思います。
お通夜を自宅でされる場合は、この間まで生きていた人と
一緒にひと晩過ごすことでもあります。
不思議ではありますが
子供にとっては、その不思議さが命の大切さを感じ取る時間になるのではないでしょうか。
その一方で、お葬式の時は泣いていてもお斎が始まると
お酒がまわって、ワイワイ賑やかになることもあります。
子供にとって、悲しいけれど悲しいだけではない思い出にもなるでしょう。
お葬式だけでなく、様々な生活様式が
時代の変化によって変わっています。
昔が良くて今がダメ、ということでもありません。
なぜ、それが昔からずっと行われてきたかという
意味を知ることがとても大切です。
形が変わっても、その意味を受け止めていれば
時代に応じたことができるはず。
それには、私たちお寺の人間の努力も大切です。
それを伝える世話役じいさんがいなくなった今、その役目をするのは
お寺でもあります。
全く会わないお坊さんになんだか分からないお経を唱えられて
高いお金を支払うのも、変な感じがします。
菩提寺があるのなら、
お坊さんに会いに行ってみることも良いかもしれません。
日頃の他愛のない話をする中で、
このお坊さんなら、自分が死んだ時にお経を読んでもらいたい!
供養してもらいたい!と
思えるかもしれません。
近所のおじさんは、4歳になる息子を見て
「おう、坊主。俺が死んだらお経を上げてくれ」、と言っていました。
普通の会話の中のひとコマなのでしょうが
そういう普段からの付き合いが
昔ながらの世話役じいさん、ではないですが
安心感を持たせてあげられるのかもしれません。
副住職が話していましたが
「村八分」、という言葉の意味を皆さんご存知でしょうか。
村八分、仲間はずれ、というような意味ですが
残りの二分は?
「火事と葬式」、なのだそうです。
昔は、たとえ村八分で仲間はずれにされていても
火事と葬式のときは村のみんなが協力して助け合う、という意味が
あったのだそうです。
村八分はいけませんが、
火事・葬儀は例外であるという昔の強い倫理観。
それは、継承すべきであるし、失ってはいけない考え方。
今一度、葬儀自体を考えさせられた年末年始でもありました。