戦後72年

2017年08月09日

お焚き上げをお願いされたものの中に
古い写真アルバムがありました。

それは、戦時中の写真でした。
旗を振られ見送られる中、出兵したり
竹槍を持って訓練する写真が何枚もありました。
だたっぴろい野原で体操していました。

写真の持ち主のおじいちゃんは、亡くなってしまったけど
元衛生兵だったそうで
(衛生兵というのは、前線で戦って負傷した兵士を
連れ戻す役割の人のことだそうです)
倒れた兵士の様子を伺っているものも。

仲間たちと談笑する写真も何枚もありました。
お風呂場で撮ったものは、昔は栄養状態も良くなかっただろうに
みんな、すごい筋肉で腹筋も割れていて、がっしりとしている様子が分かります。
写っている笑顔は、まだ幼い、あどけない感じもどことなくあって
仲間とじゃれあっている雰囲気でした。

負傷者を運び込んだ病院でしょうか、お医者さんや看護婦さんも
白衣を着て写真に写っているものもありました。
亡くなった人の合同葬儀のものもありました。
昔ながらの華やかな霊柩車にのせられ、たくさんの棺が写っていました。

お墓参りをする着物を着て日傘をさした女の人の写真もありました。

前の写真に写っていた、あの若いニコニコしていたお兄ちゃんたちが
亡くなってしまったんだろうか・・・。
そうじゃなくたって、戦争は老いも若きも関係なく
死んでしまうもの。
アルバムをめくるたびに、悲しく切ない気持ちになりました。
なんてこったい。。。こんなことがあっていいのだろうか。

私は自分の祖父からも
戦争の体験を少し聞いたことがあったけれど
お寺にいると、おじいさんたちから戦争に行ったときの話を聞くこともあります。
でも、そのおじいさんたちも最近は亡くなってしまう方も多いのです。

今、どんなに死にたい辛いことがあっても
自分で死を選ぶことはできないんじゃないかと、この写真を見ていると思います。
この当時は、生きたくても生きることができなかったり
死にたくないと声に出せなかったり
死ぬことが立派なことだと背中を押されたり
助けてもらうことができなかった。
でも今は、死にたくないと言って声に出したって
捕まるわけでもないし、逃げることも許される。
あのニコニコしていた笑顔を思うだけで、簡単に死を選んではいけないと
思ってしまうわけです。

お焚き上げの中にあったアルバムだけれど、
16日の玉泉寺お施餓鬼法要の時に一緒に祭壇におまつりして
供養しよう、ということになりました。

今日は8月9日。
長崎に原爆が投下されて72年目の年。
核兵器だミサイルだ爆弾だなんだのと新聞やニュースを賑わせてますが
72年経ってもその悲しみや傷は癒えないわけで
そういったものを使っての平和な暮らしはあり得ないと思うのですが
一部の人の金もうけや国のメンツやら駆け引きなんやら、あるのでしょうか。
でも、トップの人たちにこそ、こうした写真をよくよく見て知ってほしい。
大切な私たちの子どもをコマのように使われ、奪われたくはないと
アルバムを見て強く思うのです。




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Posted by 玉泉寺 at 15:40 | Comments(0) | お寺 | 暮らし
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