損得を考える、その続き・・
2019年03月01日
損得ぬきでやってみる、ということを
前のブログに書きましたが
お寺での関わりを見ても感じます。
80代以上のおじいさんおばあさんは、それが自然。
70代、団塊の世代の皆さんは、微妙。
70,60,50代、とその傾向が続き、
40代は、少し考える人もいる。
30代、20代は、そうしたことに関心のある人が多い。
その世代の人が、そのまま当てはまるものではありませんが
お寺にいると、そう感じることが多いです。
考えてみれば当たり前です。
団塊の世代は戦後、高度成長を支えた企業戦士で
24時間、戦えますか状態。今、こんなCM流せないですよね(笑)
儲けてなんぼ、得してなんぼ。
お寺とか、あまり実態が分からないものはうさん臭がります。
40代、バブルがはじけるまではそれが良かったのかもしれませんが
今の20,30代の皆さんは、団塊の世代の人以上に
自分のルーツとか、ご先祖とか、精神的なことに関心があります。
裏を返せば、生きづらい社会なのかな、と思います。
昔より物にあふれていて豊かになっているはずなのに
なんだか窮屈で、なんか、ゆがんでる感がする??
これも、全てには当てはまらないし、あくまで、個人で感じることですが
損得を考える人ほど、悩んでしまうのではないか。
損得を考える人ほど、つまづいてしまうのではないか。
損得を考える、つまり、自分のことだけ。
自分が良ければそれでいい、ということ。
例えば、お寺でも、
悩むときは、どんどん自分をぶつけてくるのだけど
悩みが収まったら、挨拶も報告もなく、それっきり、ということがあります。
もちろん、お寺はそういう場でもあるし、
困ったときには、いつでも駆け込んでもらっていいところです。
でも、その後に、
「こうなりました、ありがとうございました」、とか
「あの時お世話になったので、お礼参りにきました」、とか
ない人もいる!!のは、事実です。
お寺にお礼に来てほしいわけではないのです。
悩み聞いたんだから、何かして、ではないのです。
その後、うまくやってればいいんだと思います。
でも、たいてい、そういうお礼ができない場合にかぎって、
お寺だけでなく、他でもそうだから、
上手くいかないことが多いんじゃないかと思うのです。
つまり、自分がよければあとは知らない、という知らぬうちの感覚が
結局は自分を悩ましてしまうのではないか、ということです。
義理、恩というのでしょうか、心配り、というのでしょうか。
回向えこう、といって、周り回って、恩を差し向けるという意味ですが
自分が受けた恩を他へも、回し差し向けなくてはいけないのですね。
自分だけと、とめておくと、やっぱり、そこから人間関係も
上手くいかなくなることがあるんじゃないでしょうか。
よく、神社やお寺でお正月にお種銭というものがありますが
一年間、それを大切にして、そして、来年のお正月、一年たった時に
元気で過ごせました、ありがとうございます、ということで
返しにきてくださいね、というものです。
それは、回向にも似ているな、と。
一年の感謝のお礼をきちんとする、一年前の自分を省みる、ということに
繋がっているのかな、と思います。
話はだいぶそれてしまいましたが、ちょっと思ったことでした。
Posted by 玉泉寺 at 02:19 | Comments(0)
| お寺
前のブログに書きましたが
お寺での関わりを見ても感じます。
80代以上のおじいさんおばあさんは、それが自然。
70代、団塊の世代の皆さんは、微妙。
70,60,50代、とその傾向が続き、
40代は、少し考える人もいる。
30代、20代は、そうしたことに関心のある人が多い。
その世代の人が、そのまま当てはまるものではありませんが
お寺にいると、そう感じることが多いです。
考えてみれば当たり前です。
団塊の世代は戦後、高度成長を支えた企業戦士で
24時間、戦えますか状態。今、こんなCM流せないですよね(笑)
儲けてなんぼ、得してなんぼ。
お寺とか、あまり実態が分からないものはうさん臭がります。
40代、バブルがはじけるまではそれが良かったのかもしれませんが
今の20,30代の皆さんは、団塊の世代の人以上に
自分のルーツとか、ご先祖とか、精神的なことに関心があります。
裏を返せば、生きづらい社会なのかな、と思います。
昔より物にあふれていて豊かになっているはずなのに
なんだか窮屈で、なんか、ゆがんでる感がする??
これも、全てには当てはまらないし、あくまで、個人で感じることですが
損得を考える人ほど、悩んでしまうのではないか。
損得を考える人ほど、つまづいてしまうのではないか。
損得を考える、つまり、自分のことだけ。
自分が良ければそれでいい、ということ。
例えば、お寺でも、
悩むときは、どんどん自分をぶつけてくるのだけど
悩みが収まったら、挨拶も報告もなく、それっきり、ということがあります。
もちろん、お寺はそういう場でもあるし、
困ったときには、いつでも駆け込んでもらっていいところです。
でも、その後に、
「こうなりました、ありがとうございました」、とか
「あの時お世話になったので、お礼参りにきました」、とか
ない人もいる!!のは、事実です。
お寺にお礼に来てほしいわけではないのです。
悩み聞いたんだから、何かして、ではないのです。
その後、うまくやってればいいんだと思います。
でも、たいてい、そういうお礼ができない場合にかぎって、
お寺だけでなく、他でもそうだから、
上手くいかないことが多いんじゃないかと思うのです。
つまり、自分がよければあとは知らない、という知らぬうちの感覚が
結局は自分を悩ましてしまうのではないか、ということです。
義理、恩というのでしょうか、心配り、というのでしょうか。
回向えこう、といって、周り回って、恩を差し向けるという意味ですが
自分が受けた恩を他へも、回し差し向けなくてはいけないのですね。
自分だけと、とめておくと、やっぱり、そこから人間関係も
上手くいかなくなることがあるんじゃないでしょうか。
よく、神社やお寺でお正月にお種銭というものがありますが
一年間、それを大切にして、そして、来年のお正月、一年たった時に
元気で過ごせました、ありがとうございます、ということで
返しにきてくださいね、というものです。
それは、回向にも似ているな、と。
一年の感謝のお礼をきちんとする、一年前の自分を省みる、ということに
繋がっているのかな、と思います。
話はだいぶそれてしまいましたが、ちょっと思ったことでした。