2020年08月14日
お盆のさなかに お寺の奥さん
今年もお盆がやってきました。
7月のながーい梅雨が明けたと思ったら
連日真夏日の暑い暑い夏です。
この山の上では、きっとお盆が終われば秋の気配なんだろうな、
もうしばらくの暑い夏です。
外に出れば焼けるほどの暑さ。
でも、本堂の中は
程よく涼しく、心地よい。
お線香の香りがほのかに香り、
何も音のしない、静かな夏の本堂は落ち着いて、
私の大好きな場所です。
毎年16日のお施餓鬼会のために
掃除をしますが、
ふと手を止めて、本堂の戸を開けて
正面の夏の青い空と緑の山を眺めるのが好きです。
お盆中は、お坊さんたちは棚経へ。
汗をかきかき、お盆参りに出掛けます。
今年はコロナのため、伺うお宅も少なく、簡単に。
感染予防をしながらのお参りです。
こんな時期だからと遠慮するお宅と
毎年の事だから、簡単でも来てほしいというお宅と
様々ですが、求められることをしてさしあげたいと思います。
お坊さんたちが出ている間の静かな時間。
お墓参りやお寺参りのお客さんがちらほら訪れます。
お寺の仕事。お寺の奥さん。
何もやること無くない?、と言われることもありますが
いやいや、たくさん?あると私は思っています。
(適当だけど)掃除もそうだし、草刈りも。
お茶出したり、雑務諸々。
ちょっとした立ち話も。
近所のおばあちゃんちへのお散歩も。
簡単に見られがちだけど、
お寺に居る、という事も重要だと思うのです。
雑務じゃん!って思うかもしれないけど、
真面目なことを言えば、
それによってお寺は護持されているし
そうした思いの中でお客さんとお話すると感じるのは
決して、自分がやっていることがただの雑務であるとは
思えません。
事に仕えている、と思うのです。
お寺は亡くなった人を思い悲しむ場所でもあるけど
出会える場所であり、身近に感じる場所でもあると思います。
そう思えるのも、日々の雑務の中で
感じたり、人と話して気づいたり。
皆さんが一年で一番手を会わせに来られるお盆のさなか、
本堂で、ふと手を止めて思ったことは
お寺の仕事に誇りを持ちたいということでした。
どうぞ、皆さんがそれぞれにお盆を迎えられ
過ごされますように。
7月のながーい梅雨が明けたと思ったら
連日真夏日の暑い暑い夏です。
この山の上では、きっとお盆が終われば秋の気配なんだろうな、
もうしばらくの暑い夏です。
外に出れば焼けるほどの暑さ。
でも、本堂の中は
程よく涼しく、心地よい。
お線香の香りがほのかに香り、
何も音のしない、静かな夏の本堂は落ち着いて、
私の大好きな場所です。
毎年16日のお施餓鬼会のために
掃除をしますが、
ふと手を止めて、本堂の戸を開けて
正面の夏の青い空と緑の山を眺めるのが好きです。
お盆中は、お坊さんたちは棚経へ。
汗をかきかき、お盆参りに出掛けます。
今年はコロナのため、伺うお宅も少なく、簡単に。
感染予防をしながらのお参りです。
こんな時期だからと遠慮するお宅と
毎年の事だから、簡単でも来てほしいというお宅と
様々ですが、求められることをしてさしあげたいと思います。
お坊さんたちが出ている間の静かな時間。
お墓参りやお寺参りのお客さんがちらほら訪れます。
お寺の仕事。お寺の奥さん。
何もやること無くない?、と言われることもありますが
いやいや、たくさん?あると私は思っています。
(適当だけど)掃除もそうだし、草刈りも。
お茶出したり、雑務諸々。
ちょっとした立ち話も。
近所のおばあちゃんちへのお散歩も。
簡単に見られがちだけど、
お寺に居る、という事も重要だと思うのです。
雑務じゃん!って思うかもしれないけど、
真面目なことを言えば、
それによってお寺は護持されているし
そうした思いの中でお客さんとお話すると感じるのは
決して、自分がやっていることがただの雑務であるとは
思えません。
事に仕えている、と思うのです。
お寺は亡くなった人を思い悲しむ場所でもあるけど
出会える場所であり、身近に感じる場所でもあると思います。
そう思えるのも、日々の雑務の中で
感じたり、人と話して気づいたり。
皆さんが一年で一番手を会わせに来られるお盆のさなか、
本堂で、ふと手を止めて思ったことは
お寺の仕事に誇りを持ちたいということでした。
どうぞ、皆さんがそれぞれにお盆を迎えられ
過ごされますように。
2020年08月07日
蘇るオオカミ展へ
こちらのブログでも何回かご紹介しました、
玉泉寺のオオカミのお札。
三峯神社の護符であり、
全国で三峯講が盛んであったその昔、
三峯のオオカミのお札が玉泉寺でも配られたのだと考えられます。
玉泉寺には、木版の原本が残されており
今でもご希望の方には墨で刷って
お渡ししています。
今回、富士見町の公民館関係者の方から
狼展を行うので、玉泉寺のオオカミのお札と木版を
展示したい、とのお話がありました。
そして、先日、その展示会が開催されたので
富士見町まで行ってきました!
ありましたよ、玉泉寺のオオカミのお札さんが
狼展は、日本では絶滅した野生動物の王様、狼のことから
人畜に怖れられた狼が祀られる対象となり
全国の寺社でお札となったり、狛犬として石像となったりするなどの
展示もされていました。
玉泉寺以外にも、全国の寺社から集められたお札が
数多く展示され、興味深いものでした。
牛頭天王もそうですが忌み嫌うものを神格化するという。
昔から狼は怖れられつつも、崇敬されていた様子が分かりました。
玉泉寺のオオカミのお札は、中でも
手刷りで昔ながらの様を残しており、
可愛らしくユーモラスな感じで、ますます愛着が
オオカミ展は今月2日に終わってしまったのですが
オオカミのお札を見直す展示会でした。

ちなみに、左上から2番目のお札が当山のもの!
玉泉寺のオオカミのお札。
三峯神社の護符であり、
全国で三峯講が盛んであったその昔、
三峯のオオカミのお札が玉泉寺でも配られたのだと考えられます。
玉泉寺には、木版の原本が残されており
今でもご希望の方には墨で刷って
お渡ししています。
今回、富士見町の公民館関係者の方から
狼展を行うので、玉泉寺のオオカミのお札と木版を
展示したい、とのお話がありました。
そして、先日、その展示会が開催されたので
富士見町まで行ってきました!
ありましたよ、玉泉寺のオオカミのお札さんが

狼展は、日本では絶滅した野生動物の王様、狼のことから
人畜に怖れられた狼が祀られる対象となり
全国の寺社でお札となったり、狛犬として石像となったりするなどの
展示もされていました。
玉泉寺以外にも、全国の寺社から集められたお札が
数多く展示され、興味深いものでした。
牛頭天王もそうですが忌み嫌うものを神格化するという。
昔から狼は怖れられつつも、崇敬されていた様子が分かりました。
玉泉寺のオオカミのお札は、中でも
手刷りで昔ながらの様を残しており、
可愛らしくユーモラスな感じで、ますます愛着が

オオカミ展は今月2日に終わってしまったのですが
オオカミのお札を見直す展示会でした。

ちなみに、左上から2番目のお札が当山のもの!
2020年07月16日
子どもの絵本
我が家の本棚には仏教に関する絵本やマンガが何冊か。
これ読んで〜、と子どもが持ってくるのが
結構、仏教の本が多くて笑えます


え、それ?
分かってて選ぶのかな?
たまたま手にしたのがそれだったのかな?
時には絶対に分からない、読めないであろう
難しい本のページをめくったりしていて、その姿にクスリ
難しい本はともかく、
子どもが読む仏教の絵本、おすすめです。
これ読んで〜、と子どもが持ってくるのが
結構、仏教の本が多くて笑えます



え、それ?
分かってて選ぶのかな?
たまたま手にしたのがそれだったのかな?
時には絶対に分からない、読めないであろう
難しい本のページをめくったりしていて、その姿にクスリ

難しい本はともかく、
子どもが読む仏教の絵本、おすすめです。
2020年07月14日
てばなす
おてらおやつクラブという団体に加入しています。
お寺にお供えいただくお供物やご寄付頂いた品を
必要としている団体や施設にお届けする、おすそわけするというもの。
それは、ただ余ったからおすそ分け、というのではなく
本堂で仏様にお供えし、その仏様のお下がりを皆さんと分ける、といったことです。
おてらおやつクラブでは、
そうした気持ちの部分を大切にしているのだと思います。
顔の見えない誰かではあるけれど、巡り巡って
相手を思って気持ちを届ける、といった仏教の縁のつながりが
感じられる取り組みではないかな、と感じています。
年に数回、おやつクラブからの冊子が届きますが
その中で、クラブに賛同しおすそ分けを続けているご住職のインタビューがありました。
「いただいたものがあったときに、それを自分のものにしない。
蓄えない。どんどん出していくと不思議なもので、
もっと入ってくる。
出さないと入ってこない。握っているから掴めない。
それが施すということであり、てばなすということだと思っています。」と
ありました。
はっとさせられた言葉でした。
モノも気持ちも有形も無形も
留めるのではなくて、巡っていく。
もしかしたら、モノは有って無いようなものなのかもしれません。
てばなす。
次の人へ回し向ける。
水のように
巡ってゆくのがいいなあと思いました。
お寺にお供えいただくお供物やご寄付頂いた品を
必要としている団体や施設にお届けする、おすそわけするというもの。
それは、ただ余ったからおすそ分け、というのではなく
本堂で仏様にお供えし、その仏様のお下がりを皆さんと分ける、といったことです。
おてらおやつクラブでは、
そうした気持ちの部分を大切にしているのだと思います。
顔の見えない誰かではあるけれど、巡り巡って
相手を思って気持ちを届ける、といった仏教の縁のつながりが
感じられる取り組みではないかな、と感じています。
年に数回、おやつクラブからの冊子が届きますが
その中で、クラブに賛同しおすそ分けを続けているご住職のインタビューがありました。
「いただいたものがあったときに、それを自分のものにしない。
蓄えない。どんどん出していくと不思議なもので、
もっと入ってくる。
出さないと入ってこない。握っているから掴めない。
それが施すということであり、てばなすということだと思っています。」と
ありました。
はっとさせられた言葉でした。
モノも気持ちも有形も無形も
留めるのではなくて、巡っていく。
もしかしたら、モノは有って無いようなものなのかもしれません。
てばなす。
次の人へ回し向ける。
水のように
巡ってゆくのがいいなあと思いました。
2020年06月27日
お釈迦様の言葉 法句経
お釈迦様が残した古い経典の一つに、法句経(ほっくきょう)、というものがあります。
最初期の仏教思想を伝えるもので、原始経典と言われ
お釈迦様が一つ一つ詩い、語るような調子になっています。
我が家ではトイレに置いてあって、気ままにページをめくるのですが
先日、こんな言葉が目に止まりました。
アウトゥラよ。このことは昔にもあったのであり、今日に限られたことではない。
黙って坐っていても非難され、多くを語っても非難され、
程よく語っても非難される。
非難に合わない者などこの世にはいない。(第227句)
戦場における象が弓から放たれた矢を堪え忍ぶように、
私は誹謗を堪え忍ぼう。
多くの人は性格がよろしくないのだから。(第320句)
この2つは、ネット上で誹謗中傷を受け、若くして自ら命をたった
木村花さんのニュースを知り、思いました。
誹謗中傷はいけない。
でも、お釈迦様が言うように、
非難されない人はこの世にはいない。
目立てば目立つほど。
そして、避難する人の多くは性格がよくない。
今から2500年も前の人が、こんな簡単な言葉で
当たり前とも取れる言葉を残しています。
非難する人の性格が良くないんだよ、
また、非難に合わない人だっていないんだよ、
堪え忍ぶんだよ、と
彼女に伝えられたら、違った人生になったの?と
思いました。
原始経典は、お釈迦様の素朴で当たり前ともとれる言葉で
語られているのですが
それが今の時代には大切な言葉のような気がしました。
最初期の仏教思想を伝えるもので、原始経典と言われ
お釈迦様が一つ一つ詩い、語るような調子になっています。
我が家ではトイレに置いてあって、気ままにページをめくるのですが
先日、こんな言葉が目に止まりました。
アウトゥラよ。このことは昔にもあったのであり、今日に限られたことではない。
黙って坐っていても非難され、多くを語っても非難され、
程よく語っても非難される。
非難に合わない者などこの世にはいない。(第227句)
戦場における象が弓から放たれた矢を堪え忍ぶように、
私は誹謗を堪え忍ぼう。
多くの人は性格がよろしくないのだから。(第320句)
この2つは、ネット上で誹謗中傷を受け、若くして自ら命をたった
木村花さんのニュースを知り、思いました。
誹謗中傷はいけない。
でも、お釈迦様が言うように、
非難されない人はこの世にはいない。
目立てば目立つほど。
そして、避難する人の多くは性格がよくない。
今から2500年も前の人が、こんな簡単な言葉で
当たり前とも取れる言葉を残しています。
非難する人の性格が良くないんだよ、
また、非難に合わない人だっていないんだよ、
堪え忍ぶんだよ、と
彼女に伝えられたら、違った人生になったの?と
思いました。
原始経典は、お釈迦様の素朴で当たり前ともとれる言葉で
語られているのですが
それが今の時代には大切な言葉のような気がしました。
2020年06月18日
世の中もお寺もどう変化するか?
不要不急の外出を控えて3か月あまり。
玉泉寺周辺ではその辺を散歩しても
全く人と会わないので、基本、日々の生活は変わりなし
「外出しなくても、問題ないのでは・・・?」という思いが。
買い物も、まとめ買い。
むしろ棚の奥に忘れ去られていた食材を見つけて使ったり。
冷凍庫のコレなんだっけ?というものがかなり処理されて、すっきりしました。
家の周辺を満喫する、
家仕事できなかったことをやる、
ステイホームしたことで意外と忙しかった、という人もいるのでは。
ただこれが、車がないとまとめ買いできない、
人と会う仕事をされている方はセーブしなければならなかったり、
予防しながら外出せねばならない、など立場がそれぞれ違うので
一様にはまとめられませんが
結論を言えば、特に外出しなくてもまったく困らなかったのです。
いかに、不要不急の用事をしていたのか、ということを感じました。
お客さんが来なくて困る、という飲食店、宿泊業も
在りますが、本当においしいところ、魅力的なところは
なくならないと思います。
これだけ外出を控えていると
「○○に行って、○○したい!」とか
「○○の○○が食べたい!」など、目的がはっきりしてくる気がします。
本物だけが残っていくのではないでしょうか。
緊急事態宣言も解かれ徐々に経済活動も戻しつつ、戻りつつありますが
どのように世の中は変わるのでしょうか。
それとも変わらないのでしょうか。
でも価値観は確かに変わりつつあります。
今後、リモートワークが可能であるなら
高い家賃を払って都会に住むのではなく
物価の安い地方に住みリモートで仕事をすることもできます。
移住者人気NO.1の長野県は、移住者向けの相談に力を入れるといい、と
新聞にも書かれていました。
より多様な働き方、暮らし方が選択される社会になっていきますね。
その中で、お寺どのように変化していくのでしょう。
また、変化せねばならないのでしょう。
コロナの影響で葬儀やお斎がより一層簡素化になり、
遠隔でお経をあげるお坊さんもいます。
動画で瞑想や、法話をするなど、様々な取り組みがなされています。
お寺は、お坊さんの私的所有物ではなく、檀家さんや地域のもの。
社会に必要とされること、公益的な役割が課せられていると感じますので
まずはそのことを念頭に在りたいと思います。
玉泉寺周辺ではその辺を散歩しても
全く人と会わないので、基本、日々の生活は変わりなし

「外出しなくても、問題ないのでは・・・?」という思いが。
買い物も、まとめ買い。
むしろ棚の奥に忘れ去られていた食材を見つけて使ったり。
冷凍庫のコレなんだっけ?というものがかなり処理されて、すっきりしました。
家の周辺を満喫する、
家仕事できなかったことをやる、
ステイホームしたことで意外と忙しかった、という人もいるのでは。
ただこれが、車がないとまとめ買いできない、
人と会う仕事をされている方はセーブしなければならなかったり、
予防しながら外出せねばならない、など立場がそれぞれ違うので
一様にはまとめられませんが
結論を言えば、特に外出しなくてもまったく困らなかったのです。
いかに、不要不急の用事をしていたのか、ということを感じました。
お客さんが来なくて困る、という飲食店、宿泊業も
在りますが、本当においしいところ、魅力的なところは
なくならないと思います。
これだけ外出を控えていると
「○○に行って、○○したい!」とか
「○○の○○が食べたい!」など、目的がはっきりしてくる気がします。
本物だけが残っていくのではないでしょうか。
緊急事態宣言も解かれ徐々に経済活動も戻しつつ、戻りつつありますが
どのように世の中は変わるのでしょうか。
それとも変わらないのでしょうか。
でも価値観は確かに変わりつつあります。
今後、リモートワークが可能であるなら
高い家賃を払って都会に住むのではなく
物価の安い地方に住みリモートで仕事をすることもできます。
移住者人気NO.1の長野県は、移住者向けの相談に力を入れるといい、と
新聞にも書かれていました。
より多様な働き方、暮らし方が選択される社会になっていきますね。
その中で、お寺どのように変化していくのでしょう。
また、変化せねばならないのでしょう。
コロナの影響で葬儀やお斎がより一層簡素化になり、
遠隔でお経をあげるお坊さんもいます。
動画で瞑想や、法話をするなど、様々な取り組みがなされています。
お寺は、お坊さんの私的所有物ではなく、檀家さんや地域のもの。
社会に必要とされること、公益的な役割が課せられていると感じますので
まずはそのことを念頭に在りたいと思います。
2020年06月09日
世の中・人の役にたつこと
先週、役員さんの奥さんがお亡くなりになりました。
86歳でした。
役員の奥さん、ということもあって
お寺の行事の際には前日から台所仕事のお手伝いに来てくださっていました。
亡くなる1、2年前まで
行事には大きなお鍋にたくさんの大根を切って
持ってきてくれました。
最後の年には、
年とっちゃったから、もう来れないだよ〜
と言っていたのを思い出します。
チャキチャキしていて、
いつも本当にありがとう、と言うと
何言ってるだ、そんなのいいだだよ〜、と言って
ニコニコ笑って手伝ってくださっていました。
お寺の台所には、その奥さんとの思い出がたくさん。
もうこの台所で一緒に大根を切ることが無いと思うと
悲しさでいっぱいです。
来年もまた、行事はあって、
大根をたくさん切らなければならないけど
奥さんが教えてくれたこと、
それをしっかり引き継いでやっていきたいと思いました。
お寺に来て仕事をしてくださる皆さんは、
損得ではないということを、また改めて感じました。
お寺のために来てくれている。
お礼をしても、そんなのいいだ、と言って笑う。
その心が本当に有り難くて、
皆さんはご先祖さまを供養して、
仏様に功徳を積んで、
不施行をしているんだな、と感じます。
損得ではなく、世の中や人のために何かをすること。
その心を私も大切に、忘れずにしたいと
心から思いました。
本当に長い間、ありがとうございました。
ゆっくり、休んでね。
86歳でした。
役員の奥さん、ということもあって
お寺の行事の際には前日から台所仕事のお手伝いに来てくださっていました。
亡くなる1、2年前まで
行事には大きなお鍋にたくさんの大根を切って
持ってきてくれました。
最後の年には、
年とっちゃったから、もう来れないだよ〜
と言っていたのを思い出します。
チャキチャキしていて、
いつも本当にありがとう、と言うと
何言ってるだ、そんなのいいだだよ〜、と言って
ニコニコ笑って手伝ってくださっていました。
お寺の台所には、その奥さんとの思い出がたくさん。
もうこの台所で一緒に大根を切ることが無いと思うと
悲しさでいっぱいです。
来年もまた、行事はあって、
大根をたくさん切らなければならないけど
奥さんが教えてくれたこと、
それをしっかり引き継いでやっていきたいと思いました。
お寺に来て仕事をしてくださる皆さんは、
損得ではないということを、また改めて感じました。
お寺のために来てくれている。
お礼をしても、そんなのいいだ、と言って笑う。
その心が本当に有り難くて、
皆さんはご先祖さまを供養して、
仏様に功徳を積んで、
不施行をしているんだな、と感じます。
損得ではなく、世の中や人のために何かをすること。
その心を私も大切に、忘れずにしたいと
心から思いました。
本当に長い間、ありがとうございました。
ゆっくり、休んでね。
2020年05月10日
牛頭天王の札
真言宗豊山派の総本山、奈良県長谷寺では
清らかに新年を迎えるために
1月1日から7日までの修二会と、
2月8日から14日までの修二会を毎年奉修しています。
結願の14日には、お札の中で最強の力を持つという
「牛玉札」(ごおうふだ)を授与します。
年に1日限りで、札を手にすると1年をを息災に過ごせるといいます。
牛玉札をもつ参拝者の額に、閻魔大王から下賜された宝印の「檀だ印」を
押し当てることから「だだおし」と呼ばれるようになったと言われています。
修二会では、太鼓やほら貝が響き渡る中、本堂に鬼が出現。
僧侶らが修二会中に祈願していた牛玉札を手に、鬼を追い払うのだそうです。
先日、玉泉寺の古い木札を整理していたら、
なんと!!!!!!!!!
これは!?と思われる木札が。
これは、冗談ではなく、
今、コロナで皆が困っていて
何か、そうしたものを打ち払うようなお札が昔にはなかっただろうか、と
副住職と木札を整理していた時に、見つけたもの。
いろいろと調べるうち、
ざっくりとではありますが、分かったことは
その札は牛頭天王(ごずてんのう)、と呼ばれるもので
諸説ありますが薬師如来が垂迹(仏様の権現)化したものであり、
行疫神として崇められていた。
祇園信仰の神ともされ、全国の祇園社、天王社で祀られたそうです。
祇園というのは、もともと疫病の流行る6月から夏にかけて
行疫神を慰め和ませることで、疫病を鎮めるという意味をもつお祭り。
強い霊力を持つがゆえに、逆にそれを丁重に祀れば
疫病を抑えられるとして除疫神として信仰されるようになったといいます。
偶然にも見つけた神様が
祇園の神様、除疫の神様であり、牛頭天王だというのだから、驚きです。
いつの時代のものでしょう。
ホコリを落とし、興奮しつつ刷ってみました。
玉泉寺の牛頭天王は
文献にあるような怖い顔ではなく、普通のおっちゃん。
しかし、しっかりと牛の頭をし、手には縄?と斧を握っています。

そして、その牛頭天王の裏面には
稲穂を手にした、稲荷大明神が彫られていました。
五穀豊穣の神様ですね。
現代の疫病といえるコロナの厄を払うべく
5日の大般若転読会を行うとともに
牛頭天王のお札もお祀りしました。
牛頭天王のご加護があることを願わずにはいられません。
ただ、調べてみると冒頭に書いた「午玉札」と「牛頭天王」は
別物であるようです。
牛、が付いているから同じものなのかと思いましたら
(そういう説もあるようですが)
違うんですね。
詳しくご存じの方いたら、教えてほしいです。
ともかく、牛頭天王は除疫の神様。
奥深いお札の世界です。

大般若会に向けてお手伝い・・・

清らかに新年を迎えるために
1月1日から7日までの修二会と、
2月8日から14日までの修二会を毎年奉修しています。
結願の14日には、お札の中で最強の力を持つという
「牛玉札」(ごおうふだ)を授与します。
年に1日限りで、札を手にすると1年をを息災に過ごせるといいます。
牛玉札をもつ参拝者の額に、閻魔大王から下賜された宝印の「檀だ印」を
押し当てることから「だだおし」と呼ばれるようになったと言われています。
修二会では、太鼓やほら貝が響き渡る中、本堂に鬼が出現。
僧侶らが修二会中に祈願していた牛玉札を手に、鬼を追い払うのだそうです。
先日、玉泉寺の古い木札を整理していたら、
なんと!!!!!!!!!
これは!?と思われる木札が。
これは、冗談ではなく、
今、コロナで皆が困っていて
何か、そうしたものを打ち払うようなお札が昔にはなかっただろうか、と
副住職と木札を整理していた時に、見つけたもの。
いろいろと調べるうち、
ざっくりとではありますが、分かったことは
その札は牛頭天王(ごずてんのう)、と呼ばれるもので
諸説ありますが薬師如来が垂迹(仏様の権現)化したものであり、
行疫神として崇められていた。
祇園信仰の神ともされ、全国の祇園社、天王社で祀られたそうです。
祇園というのは、もともと疫病の流行る6月から夏にかけて
行疫神を慰め和ませることで、疫病を鎮めるという意味をもつお祭り。
強い霊力を持つがゆえに、逆にそれを丁重に祀れば
疫病を抑えられるとして除疫神として信仰されるようになったといいます。
偶然にも見つけた神様が
祇園の神様、除疫の神様であり、牛頭天王だというのだから、驚きです。
いつの時代のものでしょう。
ホコリを落とし、興奮しつつ刷ってみました。
玉泉寺の牛頭天王は
文献にあるような怖い顔ではなく、普通のおっちゃん。
しかし、しっかりと牛の頭をし、手には縄?と斧を握っています。
そして、その牛頭天王の裏面には
稲穂を手にした、稲荷大明神が彫られていました。
五穀豊穣の神様ですね。
現代の疫病といえるコロナの厄を払うべく
5日の大般若転読会を行うとともに
牛頭天王のお札もお祀りしました。
牛頭天王のご加護があることを願わずにはいられません。
ただ、調べてみると冒頭に書いた「午玉札」と「牛頭天王」は
別物であるようです。
牛、が付いているから同じものなのかと思いましたら
(そういう説もあるようですが)
違うんですね。
詳しくご存じの方いたら、教えてほしいです。
ともかく、牛頭天王は除疫の神様。
奥深いお札の世界です。
大般若会に向けてお手伝い・・・
2020年05月03日
玉泉寺の古いお札
大般若経典のチェック作業と並行して
玉泉寺に残されている古いお札を出してみました。
お札と言っても、木で彫られた、お札の原本。
昔は印刷されたお札ではなく
木版で一枚一枚手刷りでした。
たくさんありました。
中から古いお札を発見。
以前にも紹介した三峯の狼のお札もその一つですが
文化の時代、今から9代前の15代住職俊開の名が記された
玉泉寺の御祈祷護摩供札。

俊開さんは文化4年(1808年)に亡くなっていますから、
1700年代後半に実際に使われていたのものです。
1700年代後半というと天明、寛政の時代。
天明の大飢饉、そしてそれを受けて寛政の改革が行われた時代。
天明の大飢饉を調べてみますと、
日本近世で最大の飢饉と言われており、
悪天候や冷害による農作物の不作、
浅間山などが噴火し各地に火山灰を降らせた。
また、異様な暖冬が続き、凶作をまねいた、とあります。
飢餓とともに治安の悪化、さらに疫病も流行り
多くの人が亡くなったといいます。
天明の大飢饉の時代のものが今、ここに。
想像するに、俊開住職が飢饉で苦しんでいたであろう人たちへ
薬師如来様に祈り、
護摩をたき、木版を刷り、お札を渡していたであろうものが。
今、世界ではコロナウィルスが猛威を振るっていて
まさに、大飢饉のような状態を招いています。
不思議なことに、同じような情勢の時に
この木版を見つけたことに驚いています。
5日には大般若会を小さな形で行いますが
俊開さんがそうであったように
この異常な状態の終息を祈りたいと思います。
玉泉寺で今使われている大般若経典も
文化文政のものなので、ちょうど同じ時期のもの。
そして、昔から人々は信仰をしていた。
その気持ち、強さをたくさんの木版から感じます。
今を生きる私たちも、その思いを継いで
心を込めて護摩供や大般若会をせねばならないと感じました。
玉泉寺に残されている古いお札を出してみました。
お札と言っても、木で彫られた、お札の原本。
昔は印刷されたお札ではなく
木版で一枚一枚手刷りでした。
たくさんありました。
中から古いお札を発見。
以前にも紹介した三峯の狼のお札もその一つですが
文化の時代、今から9代前の15代住職俊開の名が記された
玉泉寺の御祈祷護摩供札。
俊開さんは文化4年(1808年)に亡くなっていますから、
1700年代後半に実際に使われていたのものです。
1700年代後半というと天明、寛政の時代。
天明の大飢饉、そしてそれを受けて寛政の改革が行われた時代。
天明の大飢饉を調べてみますと、
日本近世で最大の飢饉と言われており、
悪天候や冷害による農作物の不作、
浅間山などが噴火し各地に火山灰を降らせた。
また、異様な暖冬が続き、凶作をまねいた、とあります。
飢餓とともに治安の悪化、さらに疫病も流行り
多くの人が亡くなったといいます。
天明の大飢饉の時代のものが今、ここに。
想像するに、俊開住職が飢饉で苦しんでいたであろう人たちへ
薬師如来様に祈り、
護摩をたき、木版を刷り、お札を渡していたであろうものが。
今、世界ではコロナウィルスが猛威を振るっていて
まさに、大飢饉のような状態を招いています。
不思議なことに、同じような情勢の時に
この木版を見つけたことに驚いています。
5日には大般若会を小さな形で行いますが
俊開さんがそうであったように
この異常な状態の終息を祈りたいと思います。
玉泉寺で今使われている大般若経典も
文化文政のものなので、ちょうど同じ時期のもの。
そして、昔から人々は信仰をしていた。
その気持ち、強さをたくさんの木版から感じます。
今を生きる私たちも、その思いを継いで
心を込めて護摩供や大般若会をせねばならないと感じました。
2020年05月01日
玉泉寺 大般若会にむけて
毎年五月五日、子どもの日に行われていた
玉泉寺の大般若会ですが
新型コロナウィルスのために、今年は中止をします。
5月のソラテラも残念ながら中止にします。
それでも、私たちだけでも大般若経典転読会をしなければと思い
毎年と同じように経典の破れていないかチェックを一冊一冊、しています。
文化文政の時代から伝わる玉泉寺の経典は
古い書物の匂いがします。
それらを一つひとつ調べるのは不思議な感じです。
200年も前の書物を現代の私たちが手に取り、
それを使って今も大般若会を行うこと。
受け継がれていく縁を感じながらの作業です。
さて、ステイホームの最中。
お寺へ来られるお客さんや、お花見の人たちも少ない毎日です。
私は専ら庭掃除。
気になっていた庭の草むしりや枝払いの日々です。
峰の古道を歩くことも続けています。
歩いていて気づいたことがありました。
舗装された道を歩くこともあるのですが
子ども達は舗装されていない未舗装の道の方が
楽しそうにどこまでも歩くのです。
アスファルトの道は
「まだ??どこまで行くの~?」とダラダラですが
落ち葉カサカサの道を枝を払い、木を乗り越えながら行く道は
どんな道でも楽しいようで、ずんずんと進んでいきます。
本能というんでしょうか、開拓せんと張り切っています。
おもしろいなぁと感じています。
またある日は、化石探しをしました。
ここ信州新町は、化石が出る町なのです。
その昔は海であり、クジラの骨やサメの歯、貝類の化石が
町内の山々から発見されています。
私たちも何気なく歩いていた道で
化石あるかな?と探してみたら
なんと!!!
貝らしき跡を発見!!!
本物かしら?
珍しいものかな?
またいつか、学芸員さんに見てもらおうと思います。


ステイホームはもうしばらく続きそうです。
焚火でキャンプ飯を今夜もし、一日が終わります。

玉泉寺の大般若会ですが
新型コロナウィルスのために、今年は中止をします。
5月のソラテラも残念ながら中止にします。
それでも、私たちだけでも大般若経典転読会をしなければと思い
毎年と同じように経典の破れていないかチェックを一冊一冊、しています。
文化文政の時代から伝わる玉泉寺の経典は
古い書物の匂いがします。
それらを一つひとつ調べるのは不思議な感じです。
200年も前の書物を現代の私たちが手に取り、
それを使って今も大般若会を行うこと。
受け継がれていく縁を感じながらの作業です。
さて、ステイホームの最中。
お寺へ来られるお客さんや、お花見の人たちも少ない毎日です。
私は専ら庭掃除。
気になっていた庭の草むしりや枝払いの日々です。
峰の古道を歩くことも続けています。
歩いていて気づいたことがありました。
舗装された道を歩くこともあるのですが
子ども達は舗装されていない未舗装の道の方が
楽しそうにどこまでも歩くのです。
アスファルトの道は
「まだ??どこまで行くの~?」とダラダラですが
落ち葉カサカサの道を枝を払い、木を乗り越えながら行く道は
どんな道でも楽しいようで、ずんずんと進んでいきます。
本能というんでしょうか、開拓せんと張り切っています。
おもしろいなぁと感じています。
またある日は、化石探しをしました。
ここ信州新町は、化石が出る町なのです。
その昔は海であり、クジラの骨やサメの歯、貝類の化石が
町内の山々から発見されています。
私たちも何気なく歩いていた道で
化石あるかな?と探してみたら
なんと!!!
貝らしき跡を発見!!!
本物かしら?
珍しいものかな?
またいつか、学芸員さんに見てもらおうと思います。
ステイホームはもうしばらく続きそうです。
焚火でキャンプ飯を今夜もし、一日が終わります。
