2022年03月15日
令和四年度 初午星祭り護摩法要 2
令和四年度 初午星祭り護摩法要の模様
ユーチューブ配信第二弾。
https://youtu.be/A86hC4rShDI
新たな取り組みでありましたが、午後になって御札の受け取りに来られるなど、皆様にご協力いただき、無事に終えることができました。
ありがとうございました。
来年度は、皆さんにもお越しいただける状況になりますように。
ユーチューブ配信第二弾。
https://youtu.be/A86hC4rShDI
新たな取り組みでありましたが、午後になって御札の受け取りに来られるなど、皆様にご協力いただき、無事に終えることができました。
ありがとうございました。
来年度は、皆さんにもお越しいただける状況になりますように。
2022年02月22日
今後の社会を生きていくために
コロナウィルスが現れてから、すでに三年になりました。
なかには、当初から2、3年は落ち着かないであろうと
予想していた研究者もいるようですから
未だ収束していないのは、不思議ではないのかもしれません。
新しい生活様式を受け入れ、それと調整しながら
暮らしていくしかないとも言えます。
私たちの価値観も世界規模でガラリと変わり、
今までの常識が今後通用しないこと、
多様な価値観があって良いこと、が顕著に現れたように思います。
最近、ラジオを聞いていて
まさに!と思ったこと。
この大変革の社会を生きていく私たちには、
自分なりの価値観、信念、軸がなければ
世間に流されるままになってしまう。
なぜなら、多様な価値観があるから。
たった10年前を考えても、ここまでの多様性は見られなかった。
でもここ10年で、さらにコロナが拍車をかけ、ここ1、2年で一気にそれが加速しました。
この多様化の中では、自分軸がしっかりとしていないと
他人の価値観、他人の軸の中で生きることになり
常に不安であり、不安定な状態です。
そうでないためにも、自分の考えを持つことがより大切で
そのためには、物事を多方面から見る視点と
自分はどんな人なのかを知る、というのがキーなのではないかと思うのです。
1つものを考えたときに、自分と他の誰かは違う考えを持つかもしれない。
違う視点を持てるということは、
自分の思考の幅がひろがり、選択できるものが増えるということ。
そして自己を知る、というのは、
自分以外の何かと対比しないと
わからないものなので
やはり広く社会の物事を多方面の視点から視る、
ということが大切なのだと思います。
海外に行くと日本のことがよく分かる、というように
相対的にしか自分、というものは分からないのだと。
自分とはなにか、が分かった上で
だから私はこう思う、こうしたい、こうする、という
意思がはっきりしてくる。
自分以外の何かと触れ合うには
本を読む、人と話す、旅をする、といった自分にはない異文化にふれることが
自分の視野を広げてくれる。
コロナ禍でなかなか難しい面もあるけれど
多方面から見る見方で、
自分軸を持っていくことが
これからの社会で生きていくためには大切だと思いました。
なかには、当初から2、3年は落ち着かないであろうと
予想していた研究者もいるようですから
未だ収束していないのは、不思議ではないのかもしれません。
新しい生活様式を受け入れ、それと調整しながら
暮らしていくしかないとも言えます。
私たちの価値観も世界規模でガラリと変わり、
今までの常識が今後通用しないこと、
多様な価値観があって良いこと、が顕著に現れたように思います。
最近、ラジオを聞いていて
まさに!と思ったこと。
この大変革の社会を生きていく私たちには、
自分なりの価値観、信念、軸がなければ
世間に流されるままになってしまう。
なぜなら、多様な価値観があるから。
たった10年前を考えても、ここまでの多様性は見られなかった。
でもここ10年で、さらにコロナが拍車をかけ、ここ1、2年で一気にそれが加速しました。
この多様化の中では、自分軸がしっかりとしていないと
他人の価値観、他人の軸の中で生きることになり
常に不安であり、不安定な状態です。
そうでないためにも、自分の考えを持つことがより大切で
そのためには、物事を多方面から見る視点と
自分はどんな人なのかを知る、というのがキーなのではないかと思うのです。
1つものを考えたときに、自分と他の誰かは違う考えを持つかもしれない。
違う視点を持てるということは、
自分の思考の幅がひろがり、選択できるものが増えるということ。
そして自己を知る、というのは、
自分以外の何かと対比しないと
わからないものなので
やはり広く社会の物事を多方面の視点から視る、
ということが大切なのだと思います。
海外に行くと日本のことがよく分かる、というように
相対的にしか自分、というものは分からないのだと。
自分とはなにか、が分かった上で
だから私はこう思う、こうしたい、こうする、という
意思がはっきりしてくる。
自分以外の何かと触れ合うには
本を読む、人と話す、旅をする、といった自分にはない異文化にふれることが
自分の視野を広げてくれる。
コロナ禍でなかなか難しい面もあるけれど
多方面から見る見方で、
自分軸を持っていくことが
これからの社会で生きていくためには大切だと思いました。
2022年02月15日
2022 初午星祭りの申し込み、始まりました
玉泉寺の一年で一番の大行事、初午星祭り。
今年度、2022年は3月13日(日)です。
執行に当たって、コロナの影響もあり
どのように開催すべきか悩み、検討しました。
今年度は、
11:00〜の護摩祈祷会は、総代さんのみで行うこととし、
正午午後より、随時どなた様も参拝、御札の受取りに来ていただけるように致しました。
護摩を修法している様子は直接ご覧頂けないのですが
例年通り、護摩の炎で祈願いたします。
その代わりに、新たな試みとして
護摩の様子を撮影し、後日期間限定でyoutube配信をしたいと考えております。
住職のお話もお伝えできればと思っております。
詳しくは、またこちらのブログでもお知らせ致します。
さて、星祭りについてですが
密教では、一人ひとり持って生まれた星(本命星)と、
年によって変わる九曜と呼ばれる九つの星(当命星)とが
あると言われています。
当命星は毎年変わり、それぞれの吉凶があるので、
新しい年を迎える節分や立春には星祭り(星供養、星供とも言う)と言って、良い星回りの年はより良く、
悪い星回りの年は災が少なくなるよう、祈願するお祭りです。
真言宗や天台宗のお寺でよく行われる行事です。
申し込み用紙の一番裏に、今年の星回りについて掲載しましたので
ご覧いただければと思います。
初午については、立春となり年が明けて初めての午の日のこと。
一年の健康や諸願成就を祈念し、五穀豊穣やお稲荷さんをお祭りする日でもあります。
玉泉寺においては、雪解けの3月第2日曜日を初午祭としております。
初午星祭りの護摩祈祷会。
内容てんこ盛りです。
一番のメインイベント。
どこのお寺さんでもそうでしょうが、コロナ以前は毎年、
おとうじの振る舞いがあったりと賑やかなお祭りでした。
縮小せざるを得ないのは寂しいですが
今年も、少しでも社会の、世の中の、皆さんの状況が
良くなることを祈念し、初午護摩祈祷会を執行致します。
どうぞ、密を避け、ご参拝にいらしてください。
順次、申し込み帳は発送しております。
送って欲しい、新たに申し込みたいという方は
玉泉寺までご連絡ください。
☎026-262-4222
よろしくお願い致します。
今年度、2022年は3月13日(日)です。
執行に当たって、コロナの影響もあり
どのように開催すべきか悩み、検討しました。
今年度は、
11:00〜の護摩祈祷会は、総代さんのみで行うこととし、
正午午後より、随時どなた様も参拝、御札の受取りに来ていただけるように致しました。
護摩を修法している様子は直接ご覧頂けないのですが
例年通り、護摩の炎で祈願いたします。
その代わりに、新たな試みとして
護摩の様子を撮影し、後日期間限定でyoutube配信をしたいと考えております。
住職のお話もお伝えできればと思っております。
詳しくは、またこちらのブログでもお知らせ致します。
さて、星祭りについてですが
密教では、一人ひとり持って生まれた星(本命星)と、
年によって変わる九曜と呼ばれる九つの星(当命星)とが
あると言われています。
当命星は毎年変わり、それぞれの吉凶があるので、
新しい年を迎える節分や立春には星祭り(星供養、星供とも言う)と言って、良い星回りの年はより良く、
悪い星回りの年は災が少なくなるよう、祈願するお祭りです。
真言宗や天台宗のお寺でよく行われる行事です。
申し込み用紙の一番裏に、今年の星回りについて掲載しましたので
ご覧いただければと思います。
初午については、立春となり年が明けて初めての午の日のこと。
一年の健康や諸願成就を祈念し、五穀豊穣やお稲荷さんをお祭りする日でもあります。
玉泉寺においては、雪解けの3月第2日曜日を初午祭としております。
初午星祭りの護摩祈祷会。
内容てんこ盛りです。
一番のメインイベント。
どこのお寺さんでもそうでしょうが、コロナ以前は毎年、
おとうじの振る舞いがあったりと賑やかなお祭りでした。
縮小せざるを得ないのは寂しいですが
今年も、少しでも社会の、世の中の、皆さんの状況が
良くなることを祈念し、初午護摩祈祷会を執行致します。
どうぞ、密を避け、ご参拝にいらしてください。
順次、申し込み帳は発送しております。
送って欲しい、新たに申し込みたいという方は
玉泉寺までご連絡ください。
☎026-262-4222
よろしくお願い致します。
2022年01月25日
マンダラの思想を生かす
真言宗豊山派の冊子に「光明」があります。
この冊子が私は好きで、よく読んでいるのですが、
新春号の特集は「マンダラ」。
マンダラについて簡単に分かりやすく書かれています。
言葉で伝えるのには難しい真言密教の悟りの世界を
図画で表しているもの、なのです。
以下、一部抜粋
マンダラには経典に説かれた教えに基づく理想世界が、
仏たちの集合体として描かれているのです。
真言宗の教えのエッセンスを目に見える形で表現したものです。
多様でありながら統一と調和が保たれ、鬼神をも含めたあらゆるものが
それぞれの価値と役割を持って密接に結びつきながら、適切な場所に正しく配置されています。
ふむふむ。
なんだか、現代にも通じる考えですね。
また、代表的な金剛界マンダラと、胎蔵界マンダラ。
金剛界マンダラは、ほとけの智慧を要素に。
金剛、とは何者にも砕かれない堅固なダイヤモンドを意味します。
智慧は知識とは違い、正しいものの見方のこと。
自己中心的ではなく、とらわれの心から離れて見ること。
こうした堅固な智慧を、金剛界マンダラでは表しています。
対になる胎蔵界マンダラが表すのは、慈悲。
胎蔵界というのは、母胎、子宮、を意味します。
無償の愛、といいますか、人を思いやる心を指します。慈悲です。
困ってる人に手を差し伸べるだけでなく、
道を外した人には忿怒の姿をした不動明王のように、強い力で導くことも。
**************************
智慧は、自分自身の生き方考え方、
慈悲は他者との関わり方と言い換えることもできます。
私達が人の繋がりなくして生きられないように
慈悲に基づかない智慧は受け入れられませんし、
智慧に基づかない慈悲は方向性が定まりません。
両者をバランスよく保つことが大切です。
この2つのマンダラは元々、別々に成立したもののようですが
真言密教では「両部不二りょうぶふに」としてセットで捉え、
智慧と慈悲とを兼ね備えることを目指しました。
***************************
真言密教、すごーーーい!
確かに、智慧と慈悲はセットがいいです。
それぞれ1つずつでも尊いものですが
2つ兼ね備えることができれば、より良いですね。
それぞれの仏さまが教えてくれること。
日々の生活に添わせながら観て、さらに実践できればと思いました。

この冊子が私は好きで、よく読んでいるのですが、
新春号の特集は「マンダラ」。
マンダラについて簡単に分かりやすく書かれています。
言葉で伝えるのには難しい真言密教の悟りの世界を
図画で表しているもの、なのです。
以下、一部抜粋
マンダラには経典に説かれた教えに基づく理想世界が、
仏たちの集合体として描かれているのです。
真言宗の教えのエッセンスを目に見える形で表現したものです。
多様でありながら統一と調和が保たれ、鬼神をも含めたあらゆるものが
それぞれの価値と役割を持って密接に結びつきながら、適切な場所に正しく配置されています。
ふむふむ。
なんだか、現代にも通じる考えですね。
また、代表的な金剛界マンダラと、胎蔵界マンダラ。
金剛界マンダラは、ほとけの智慧を要素に。
金剛、とは何者にも砕かれない堅固なダイヤモンドを意味します。
智慧は知識とは違い、正しいものの見方のこと。
自己中心的ではなく、とらわれの心から離れて見ること。
こうした堅固な智慧を、金剛界マンダラでは表しています。
対になる胎蔵界マンダラが表すのは、慈悲。
胎蔵界というのは、母胎、子宮、を意味します。
無償の愛、といいますか、人を思いやる心を指します。慈悲です。
困ってる人に手を差し伸べるだけでなく、
道を外した人には忿怒の姿をした不動明王のように、強い力で導くことも。
**************************
智慧は、自分自身の生き方考え方、
慈悲は他者との関わり方と言い換えることもできます。
私達が人の繋がりなくして生きられないように
慈悲に基づかない智慧は受け入れられませんし、
智慧に基づかない慈悲は方向性が定まりません。
両者をバランスよく保つことが大切です。
この2つのマンダラは元々、別々に成立したもののようですが
真言密教では「両部不二りょうぶふに」としてセットで捉え、
智慧と慈悲とを兼ね備えることを目指しました。
***************************
真言密教、すごーーーい!
確かに、智慧と慈悲はセットがいいです。
それぞれ1つずつでも尊いものですが
2つ兼ね備えることができれば、より良いですね。
それぞれの仏さまが教えてくれること。
日々の生活に添わせながら観て、さらに実践できればと思いました。

2022年01月17日
お寺で生まれた縁・縁・縁
先日、この雪の降りしきる中、
赤ちゃんのお初参りに玉泉寺へ来てくださったご家族がありました。
赤ちゃんの両親となる若い2人は
本当にたまたま、お寺を介して縁が重なって出会い、
トントンと話が進んで、赤ちゃんも授かり、
この度のお初参りとなりました。
私にとっても、本当に嬉しい出来事で
12月に生まれた赤ちゃんのお参りを
ご両家揃って来てくださったことも
嬉しかったのです。
こうしたご縁が身近で生まれることに
嬉しくあり、お寺がその仲介となることが出来、
また、私たちのやりがいともなっています。
これからも、色々な様々なご縁が生まれていきますように。
そして、このご家族のさらなる幸せを願わずにはいられませんでした。

赤ちゃんのお初参りに玉泉寺へ来てくださったご家族がありました。
赤ちゃんの両親となる若い2人は
本当にたまたま、お寺を介して縁が重なって出会い、
トントンと話が進んで、赤ちゃんも授かり、
この度のお初参りとなりました。
私にとっても、本当に嬉しい出来事で
12月に生まれた赤ちゃんのお参りを
ご両家揃って来てくださったことも
嬉しかったのです。
こうしたご縁が身近で生まれることに
嬉しくあり、お寺がその仲介となることが出来、
また、私たちのやりがいともなっています。
これからも、色々な様々なご縁が生まれていきますように。
そして、このご家族のさらなる幸せを願わずにはいられませんでした。

2022年01月13日
年末年始の玉泉寺
昨年末から、雪が降り
今年は雪かきに追われています。
子どもたちも冬休み中は天然の玉泉寺スノーパークで遊びました!
からの焼きマシュマロ!

大晦日は、家族揃って本堂で一年の挨拶を。
除夜の鐘も、お寺の近くに新しくできたカフェのオーナーご夫妻が
突きに来てくれました!

新年2日は、お兄さん、お姉さん、小学生組は書き初め。
ちびっ子たちは、絵の具でお絵描きです。
賑やかなお正月でした。

今週末は朝日村の古川寺で観音祭のお手伝いの予定です。
コロナも急速に感染拡大中ですので心配ですが
対策を講じて行われる様子です。
風邪にも、コロナにも気をつけつつ
冬を乗り切りましょう!
今年は雪かきに追われています。
子どもたちも冬休み中は天然の玉泉寺スノーパークで遊びました!
からの焼きマシュマロ!

大晦日は、家族揃って本堂で一年の挨拶を。
除夜の鐘も、お寺の近くに新しくできたカフェのオーナーご夫妻が
突きに来てくれました!

新年2日は、お兄さん、お姉さん、小学生組は書き初め。
ちびっ子たちは、絵の具でお絵描きです。
賑やかなお正月でした。

今週末は朝日村の古川寺で観音祭のお手伝いの予定です。
コロナも急速に感染拡大中ですので心配ですが
対策を講じて行われる様子です。
風邪にも、コロナにも気をつけつつ
冬を乗り切りましょう!
2022年01月12日
あけましておめでとうございます! 2022
皆さま、あけましておめでとうございます。
本年もどうぞ、ブログ「ドンとこい★玉泉寺」、
よろしくお願いいたします。
気ままな寺嫁目線で綴った、このブログも
早いもので、もう10年近く書いていることになります。
平均して、ひと月に1回か2回アップしているか…といったゆるいブログではありますが
新年にあたって、改めて
仏様の教え、その良さ、山奥のお寺で暮らしながら思うこと、など
なるべく多く書き、お伝えできたらと思っております。
昨年はラジオ、テレビ、新聞など、多くのメディアに
玉泉寺やソラテラを取材していただき、皆さんからの反応も
大きかった一年でした。
山奥のへんぴな場所で何かやってる、というのが珍しがられる一方で
確実に、興味関心を持ってもらえている、という事も感じました。
コロナの影響も多分にあるでしょう。
不安定な世の中、人との繋がりが増々薄れていく。
そうした中では、より一層、お寺や仏教の思想が求められるのではないかと思うのです。
また、お寺はこうした時にこそ、動かないと駄目なのではないかと思うのです。
今年度も、仏教の良さを感じてもらうため、
(仏教の良さ、というのは私達の普段の生活の中で
お釈迦様の言葉やお経中の言葉、お話に出てくる教えが活かされる、エッセンスのような感じ)
進んでまいりたいと思います。
本年もよろしくお願い致します。
本年もどうぞ、ブログ「ドンとこい★玉泉寺」、
よろしくお願いいたします。
気ままな寺嫁目線で綴った、このブログも
早いもので、もう10年近く書いていることになります。
平均して、ひと月に1回か2回アップしているか…といったゆるいブログではありますが
新年にあたって、改めて
仏様の教え、その良さ、山奥のお寺で暮らしながら思うこと、など
なるべく多く書き、お伝えできたらと思っております。
昨年はラジオ、テレビ、新聞など、多くのメディアに
玉泉寺やソラテラを取材していただき、皆さんからの反応も
大きかった一年でした。
山奥のへんぴな場所で何かやってる、というのが珍しがられる一方で
確実に、興味関心を持ってもらえている、という事も感じました。
コロナの影響も多分にあるでしょう。
不安定な世の中、人との繋がりが増々薄れていく。
そうした中では、より一層、お寺や仏教の思想が求められるのではないかと思うのです。
また、お寺はこうした時にこそ、動かないと駄目なのではないかと思うのです。
今年度も、仏教の良さを感じてもらうため、
(仏教の良さ、というのは私達の普段の生活の中で
お釈迦様の言葉やお経中の言葉、お話に出てくる教えが活かされる、エッセンスのような感じ)
進んでまいりたいと思います。
本年もよろしくお願い致します。
2021年12月07日
受け継がれて、生き続ける
最近、思ったこと。
ある人が死んでしまったとして
その影響が受け継がれる、引き継がれる、ということがあります。
それは、肉体はいなくなっても
その人は、生き続けていることと同じだと思います。
おやき名人で、生前、私におやきの作り方を教えてくれた
ご近所の千代子ばあちゃん。
そのレシピを見ながらおやきを作るときは
確実に千代ちゃんが私の中に生きているし、
住職のお母さんで、玉泉寺を長年支えていた
摩耶子ばあちゃんは、私は会ったことが無いけれど
色んな人から、摩耶子さんの話を聞いていると
私のお寺に対するおつとめの姿勢は
摩耶子さんをお手本にしている節があります。
そんな時は、千代ちゃんも、摩耶子さんも生きている気がするのです。
その内容は大きい、小さいではなく
例えば、子供がいれば、
その子供たちに、自分の伝えてきたことや教えることで
自分がいなくなった後も、何かしらの影響を与えているだろうし
子供でなくても、周りの人たちや関わりのあった人たちに
たとえ小さなことでも、やっぱり、
教わったことや、話していたことなど、受け継がれていく、
という事があると思います。
仮に、自分が思うように生きられず、進まないと思っても
どこかで自らの影響を受けた人が、何かを成すこともあるかもしれない。
生きるかもしれない。
人は互いにそうした中で繋がりあって生きているのだと思います。
自分がいなくなっても、些細なことでも誰かの中に生き続けるかもしれないし
誰かがいなくなっても、自分の中で生き続ける。
だから、自分が生きていることを虚しく感じることはないし
希望を持っていいと思うのです。
ある人が死んでしまったとして
その影響が受け継がれる、引き継がれる、ということがあります。
それは、肉体はいなくなっても
その人は、生き続けていることと同じだと思います。
おやき名人で、生前、私におやきの作り方を教えてくれた
ご近所の千代子ばあちゃん。
そのレシピを見ながらおやきを作るときは
確実に千代ちゃんが私の中に生きているし、
住職のお母さんで、玉泉寺を長年支えていた
摩耶子ばあちゃんは、私は会ったことが無いけれど
色んな人から、摩耶子さんの話を聞いていると
私のお寺に対するおつとめの姿勢は
摩耶子さんをお手本にしている節があります。
そんな時は、千代ちゃんも、摩耶子さんも生きている気がするのです。
その内容は大きい、小さいではなく
例えば、子供がいれば、
その子供たちに、自分の伝えてきたことや教えることで
自分がいなくなった後も、何かしらの影響を与えているだろうし
子供でなくても、周りの人たちや関わりのあった人たちに
たとえ小さなことでも、やっぱり、
教わったことや、話していたことなど、受け継がれていく、
という事があると思います。
仮に、自分が思うように生きられず、進まないと思っても
どこかで自らの影響を受けた人が、何かを成すこともあるかもしれない。
生きるかもしれない。
人は互いにそうした中で繋がりあって生きているのだと思います。
自分がいなくなっても、些細なことでも誰かの中に生き続けるかもしれないし
誰かがいなくなっても、自分の中で生き続ける。
だから、自分が生きていることを虚しく感じることはないし
希望を持っていいと思うのです。
2021年11月19日
おてらおやつクラブ 歳末たすけあいに向けて
このブログでも何度か紹介し、
玉泉寺も賛同寺院として登録している、認定NPO法人おてらおやつクラブ。
各お寺さんにお供えされるお供物を
仏様からのお下がりとして、必要とされる施設や家庭へお届けする、
という活動を行っています。
11月も半ばを過ぎ、いよいよ年末の声も聞こえる頃になりました。
おてらおやつクラブでは、クリスマスやお正月を迎える年末に向けて、
「歳末たすけあい2021」と題し、各ご家庭へ
食品や日用品などをお届けする活動をさらに強化して行うようです。
玉泉寺でも、楽市楽座の際に、フードドライブを開催したり
日頃よりお供えいただく事もございますが
今回の「歳末たすけあい」の趣旨を受け、この取り組みに参加する事にいたしました。
先日開いた焼き芋会の時に、小川村農家さんより、たくさんのさつま芋を頂きました。
食べきれずにまだ余分にありますので、お裾分け出来たらと思っています。
その他に、皆さんももし、ご家庭で使えずに余っている食品や日用品が
ありましたら、ぜひ、玉泉寺までお持ちよりください。
責任をもって、おてらおやつクラブから、必要とされているご家庭などへお届けいたします。
「歳末たすけあい2021」は、12月15日まで行っております。
それまでに発送しますので、12月15日前を目指してお持ち寄りいただければ有り難いです。
皆様においても年末に向け、何かと忙しい季節かと思いますが
自らの施した行為が、自分の身の回りの人だけでなく、
巡り巡って、知らない誰かのためになる、
それがまた、巡り巡って、身近な人や物たちの元へ返ってくる。
仏教でいう、恩送り、回向、だと思います。
そんな気持ちでひとつ、無理の無い範囲でご協力頂ければ、嬉しいです。
そして、持ち寄って頂いた際にはどうぞ、お茶でも飲んでいってください。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
玉泉寺も賛同寺院として登録している、認定NPO法人おてらおやつクラブ。
各お寺さんにお供えされるお供物を
仏様からのお下がりとして、必要とされる施設や家庭へお届けする、
という活動を行っています。
11月も半ばを過ぎ、いよいよ年末の声も聞こえる頃になりました。
おてらおやつクラブでは、クリスマスやお正月を迎える年末に向けて、
「歳末たすけあい2021」と題し、各ご家庭へ
食品や日用品などをお届けする活動をさらに強化して行うようです。
玉泉寺でも、楽市楽座の際に、フードドライブを開催したり
日頃よりお供えいただく事もございますが
今回の「歳末たすけあい」の趣旨を受け、この取り組みに参加する事にいたしました。
先日開いた焼き芋会の時に、小川村農家さんより、たくさんのさつま芋を頂きました。
食べきれずにまだ余分にありますので、お裾分け出来たらと思っています。
その他に、皆さんももし、ご家庭で使えずに余っている食品や日用品が
ありましたら、ぜひ、玉泉寺までお持ちよりください。
責任をもって、おてらおやつクラブから、必要とされているご家庭などへお届けいたします。
「歳末たすけあい2021」は、12月15日まで行っております。
それまでに発送しますので、12月15日前を目指してお持ち寄りいただければ有り難いです。
皆様においても年末に向け、何かと忙しい季節かと思いますが
自らの施した行為が、自分の身の回りの人だけでなく、
巡り巡って、知らない誰かのためになる、
それがまた、巡り巡って、身近な人や物たちの元へ返ってくる。
仏教でいう、恩送り、回向、だと思います。
そんな気持ちでひとつ、無理の無い範囲でご協力頂ければ、嬉しいです。
そして、持ち寄って頂いた際にはどうぞ、お茶でも飲んでいってください。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
2021年10月26日
お寺の護持から思うこと
超限界集落に位置し、地域の高齢化が進む玉泉寺。
お寺の草刈りや雪かきなどの環境整備は
地域の檀家さんが持ち回り当番となって担ってくださっています。
しかし、近年は高齢化、かつ、ご近所に暮らす方が少なくなる中、
お寺の護持活動もままならなくなってきました。
「シルバー人材センターなどに頼んでやってもらったら?」、
との意見もありますが、なにか違和感を感じます。
「でもなぁ、お寺のことなのに…」、という気持ちも湧き上がります。
モヤモヤとした気持ちの中から、ある事を思いました。
お金を払って、他の誰かにお願いするのは、簡単なことです。
しかし、檀家さんにとっては自分のお寺です。
距離的に遠かったり、休みが取りづらかったり、という事情もそれぞれあるでしょうが
もう少し関心を持ってほしいな、というのが思いです。
随分と上から目線ではないか、と言われそうなところですが、
さらに思ったことは
皆が、サービスに慣れすぎてしまった、ということです。
つまり、お金を払えば全て済む。と。
時代の流れですから、それも理解できます。
今、お葬式は、葬祭センターの人が全てやってくれる。お金を払えば。
私達は「お客様」でいられるのです。
でも昔は、隣組というご近所の付き合いがあって、その中で行われていた。
葬式も、喪主家族は喪に服しているわけですから、料理なども隣近所の隣組が。
また、お隣さんに不幸があれば、逆の立場にもなるわけです。
それは「お互いさま」、の精神だと思います。
今は「絆」、「人とのつながり」といった言葉がとても言われていますが
そうした背景には、あまりにもお金や、サービスでしか繋がらない無機質な関係が
社会に多すぎるからなのではないでしょうか。
引きこもり、発達障害、いろんな社会問題がありますが
どれも昔の様な「お互いさま」の精神があれば、乗り越えられる問題ではないでしょうか。
お金を払って受けるサービスに慣れてしまうと
「損得」で物事を考えるようになります。
見返りを求めてしか、動かない。
そこで、はじめに話した護持活動の話に戻ります。
お寺の護持も、そうです。
お寺のお掃除やお手伝いなど、昔は皆が
見返りなど求めずに参加していた。
むしろ、自分の寺だという気持ちで、率先して動いていました。
草刈り機使えないおばあちゃん達も、草むしりに来てくれました。
でも、当たり前っちゃ当たり前です。
だって昔はシルバー人材センターも、葬儀屋さんも無いんですから。
自分たちで掃除も葬式も行事もやるしかない。
お互い様の精神で。
引きこもりの人も、発達障害の人も、
絶対的な人足として、社会に必要とされていた訳です。
そして地域の一員と認められ、「ありがとうね」、と声を掛け合っていたのです。
で、お寺ってのは
そうした「お互い様」、の象徴のような場所であったのではないかと思ったのです。
お互い様を実践する、修行道場。
布施、は施すこと。
布は、昔は貴重であったので僧侶に衣(布)を施すことが、徳となることから
施しをすることを布施、と言うようになりました。
施すとは、誰かに与えること。
このブログでも何度か書いていますが
他の誰かに与えることで、巡り巡って
自分や自分の子孫や、その他諸々にその恩が回し向けられるということ。
(これを回向えこう、と言う)
だから、施しなさい、とお釈迦様の教えです。
更には仏教には「喜捨」、という言葉もあるくらいです。
喜んで捨てる。
そこに、見返りや損得はありません。
布施は、お金だけを指していません。
笑顔でいること、掃除など体で奉仕すること、
物品を寄付することなども布施です。
お寺は、「損得」だらけの現代社会において
「お互い様」精神を育む修行道場でなければならないのではないか、と思うのです。
雪かきや草刈り活動を、見返りを求めず、ただ行うこと。
自分が持っているものを手放すこと。
もちろん、その大前提には
お寺やお坊さんは、その教えを体現しているような徳が高くなければなりません。
欲深くて、自分のことしか考えないようなお坊さんはダメです。
回りくどくなってしまいましたが…
護持がままならなくなって
シルバー人材センターに頼んだら?と言われたことにモヤモヤして
お金のやり取りで成立するサービス社会に慣れきった「損得勘定」の価値観に行き詰まりを感じ
以前の暮らしのあり方、「お互い様」精神の大切さに行き着く。
そして、それには「布施」「喜捨」、という仏教の教えがあるのだということ。
お寺を掃除してくれ!寄付してくれ!
と言っているのではありません。
ではなくて、損得でしか物事をとらえられなくなっている現代人に
施すこと、喜んで捨てること、そこから生まれ、広がる繋がりを教え説くのが
お寺の役割りであり、場所、なのではないかと思うのです。
だから、お坊さんはもっと、その事を、良い教えを
皆さんに伝えないといけません。
お坊さん自身も修行しなければいけません。
やはり、お坊さんの仕事は、教えを伝え説く事、布教が仕事なのだと思います。
お寺の草刈りや雪かきなどの環境整備は
地域の檀家さんが持ち回り当番となって担ってくださっています。
しかし、近年は高齢化、かつ、ご近所に暮らす方が少なくなる中、
お寺の護持活動もままならなくなってきました。
「シルバー人材センターなどに頼んでやってもらったら?」、
との意見もありますが、なにか違和感を感じます。
「でもなぁ、お寺のことなのに…」、という気持ちも湧き上がります。
モヤモヤとした気持ちの中から、ある事を思いました。
お金を払って、他の誰かにお願いするのは、簡単なことです。
しかし、檀家さんにとっては自分のお寺です。
距離的に遠かったり、休みが取りづらかったり、という事情もそれぞれあるでしょうが
もう少し関心を持ってほしいな、というのが思いです。
随分と上から目線ではないか、と言われそうなところですが、
さらに思ったことは
皆が、サービスに慣れすぎてしまった、ということです。
つまり、お金を払えば全て済む。と。
時代の流れですから、それも理解できます。
今、お葬式は、葬祭センターの人が全てやってくれる。お金を払えば。
私達は「お客様」でいられるのです。
でも昔は、隣組というご近所の付き合いがあって、その中で行われていた。
葬式も、喪主家族は喪に服しているわけですから、料理なども隣近所の隣組が。
また、お隣さんに不幸があれば、逆の立場にもなるわけです。
それは「お互いさま」、の精神だと思います。
今は「絆」、「人とのつながり」といった言葉がとても言われていますが
そうした背景には、あまりにもお金や、サービスでしか繋がらない無機質な関係が
社会に多すぎるからなのではないでしょうか。
引きこもり、発達障害、いろんな社会問題がありますが
どれも昔の様な「お互いさま」の精神があれば、乗り越えられる問題ではないでしょうか。
お金を払って受けるサービスに慣れてしまうと
「損得」で物事を考えるようになります。
見返りを求めてしか、動かない。
そこで、はじめに話した護持活動の話に戻ります。
お寺の護持も、そうです。
お寺のお掃除やお手伝いなど、昔は皆が
見返りなど求めずに参加していた。
むしろ、自分の寺だという気持ちで、率先して動いていました。
草刈り機使えないおばあちゃん達も、草むしりに来てくれました。
でも、当たり前っちゃ当たり前です。
だって昔はシルバー人材センターも、葬儀屋さんも無いんですから。
自分たちで掃除も葬式も行事もやるしかない。
お互い様の精神で。
引きこもりの人も、発達障害の人も、
絶対的な人足として、社会に必要とされていた訳です。
そして地域の一員と認められ、「ありがとうね」、と声を掛け合っていたのです。
で、お寺ってのは
そうした「お互い様」、の象徴のような場所であったのではないかと思ったのです。
お互い様を実践する、修行道場。
布施、は施すこと。
布は、昔は貴重であったので僧侶に衣(布)を施すことが、徳となることから
施しをすることを布施、と言うようになりました。
施すとは、誰かに与えること。
このブログでも何度か書いていますが
他の誰かに与えることで、巡り巡って
自分や自分の子孫や、その他諸々にその恩が回し向けられるということ。
(これを回向えこう、と言う)
だから、施しなさい、とお釈迦様の教えです。
更には仏教には「喜捨」、という言葉もあるくらいです。
喜んで捨てる。
そこに、見返りや損得はありません。
布施は、お金だけを指していません。
笑顔でいること、掃除など体で奉仕すること、
物品を寄付することなども布施です。
お寺は、「損得」だらけの現代社会において
「お互い様」精神を育む修行道場でなければならないのではないか、と思うのです。
雪かきや草刈り活動を、見返りを求めず、ただ行うこと。
自分が持っているものを手放すこと。
もちろん、その大前提には
お寺やお坊さんは、その教えを体現しているような徳が高くなければなりません。
欲深くて、自分のことしか考えないようなお坊さんはダメです。
回りくどくなってしまいましたが…
護持がままならなくなって
シルバー人材センターに頼んだら?と言われたことにモヤモヤして
お金のやり取りで成立するサービス社会に慣れきった「損得勘定」の価値観に行き詰まりを感じ
以前の暮らしのあり方、「お互い様」精神の大切さに行き着く。
そして、それには「布施」「喜捨」、という仏教の教えがあるのだということ。
お寺を掃除してくれ!寄付してくれ!
と言っているのではありません。
ではなくて、損得でしか物事をとらえられなくなっている現代人に
施すこと、喜んで捨てること、そこから生まれ、広がる繋がりを教え説くのが
お寺の役割りであり、場所、なのではないかと思うのです。
だから、お坊さんはもっと、その事を、良い教えを
皆さんに伝えないといけません。
お坊さん自身も修行しなければいけません。
やはり、お坊さんの仕事は、教えを伝え説く事、布教が仕事なのだと思います。