2016年03月15日
28年度 初午無事に
13日、無事に玉泉寺の初午が終了しました。
お越し下さいました皆様、ありがとうございました。
昨日14日は、雪が降りつもって
護摩当日でなくて良かったなぁと思う一日。
それでも護摩に来られなかった方が次々とお札を
受け取りに来られました。
私にとっては6回目の初午護摩。
今までは、ただバタバタとしてるだけでしたが
全体の流れもようやく分かってきた感じです。
玉泉寺の初午では、毎年お経の前に余興をやります。
今年は、住職の諏訪時代の教え子でもある
演歌歌手の宮坂寿子さんが歌を、
お檀家さんでもある黒岩春州さんが詩吟を吟じてくださいました。
30分ほどの余興のあと
東日本大震災の追悼法要、
そして今年一年の安穏を願って、護摩を焚きます。
玉泉寺には護摩堂がないので
一年に一度、護摩を焚くのはこの日だけです。


申し込まれたお札やお守り、木札を
護摩の炎でお浄めし、皆さんにお渡しします。
また、身ぶりといって
入院されていたり、遠くにいるなどして
お寺に来られない方には
ハンカチや帽子など身につけているものなどを炎でお浄めする、ということも
受け付けております。



本堂にはたくさんの人。
護摩が始まると、煙がもくもく・・・・・
護摩の火にあたりに、このときばかりは
裏方のおばちゃんたちもお台所から出て、本堂へ。
法要が終わり、住職のお話。
修行中は山やお堂にこもって護摩を焚いたり
お経を唱えたりしますが
なぜ、そんなことをするのか?
思うに、自然と一体となること。
そして動物と一体となることなのだ、といいます。
動物たちは、この自然の中で
五感をフル活動させながら自らの力で生きています。
その感覚を修行僧たちも身につけるように、
修行に励んでいるのではないかと言うのです。
先日の仏教講座で聞いた釈先生の話の中にも
同じような内容がありました。
身体知、という体の知能があり
今はそれが低下している、というものでした。
世の中が便利になると、
私たちの体も楽ができるようになります。
身近なことで言えば電気も自動で点くし、トイレも自動で流れる。
そういった研究は日々進歩し、
よく言えば便利に、
悪く言えば身体知が低下するようになってきました。
それを危惧する声はありますが、
その開発を止めることはないでしょうし
これからますます、身体知が低下する世の中となっていきます。
洗濯は洗濯機が、米炊きは炊飯器がやってくれて
当たり前すぎて今の暮らしには欠かせないものが
たくさんあります。
ただ、この山奥に住んでいて
夜になると前も見えないほど真っ暗になり、ちょっと外に出るだけでも
周りの音や気配、匂いなど
すべての感覚を研ぎ澄ませないと歩けなくて、
そんな時は、頭のてっぺんから足の裏まで
体中がアンテナになっていると感じます。
本当に、山に住むイノシシの気分です。
満月の夜や雪の夜は
それはそれは明るくて、
昔の人がどんなにその明かりを望んでいたのかが
分かるようです。
そういう感覚は、街に住んでいれば皆無。
確かに、生きるものとして
五感を研ぎ澄ませる感覚というのは
どんなに世の中が便利になろうとも
必要なのでは、と思いました。
身体知が低下するというのは
こういうことなのかとも思います。
修行するお坊さんたちは、
この感覚を身につけるべく
修行に励むのだと住職のお話があり
それがとても心に残りました。
さて、そのあとは
お投じそばの振る舞い。
薪でふかしたお赤飯やおでんなど、皆さん
思い思いに食事をなさって、
今年の初午護摩も無事に終えることができました。
毎度のことながら、
参拝してくださる皆さまもそうですが
お手伝いしてくださっている
役員さんはじめ、ご近所の方々、
最近では若い方もお手伝いに
朝早くから、来てくださって本当に本当に感謝です。
会場セッティングから
お台所関係、受付に
駐車場係と、皆さんの力あってのお祭り。
地域の力が崩れている今、
ご縁で繋がり、お寺に来てくださったり
お手伝いとして力を貸してくださったり
ご縁が続いていけるというのは本当にありがたく
嬉しいことだな、と感じます。
住職のお話にもありましたが
初午護摩供養、という縁に導かれて
参拝でも、お手伝いでも、
来られた皆さんが
「今日は来て良かった」、と思える日であるようにと願います。
改めて、今年一年が
皆さんにとって良い一年となりますように。
ありがとうございました。
お越し下さいました皆様、ありがとうございました。
昨日14日は、雪が降りつもって
護摩当日でなくて良かったなぁと思う一日。
それでも護摩に来られなかった方が次々とお札を
受け取りに来られました。
私にとっては6回目の初午護摩。
今までは、ただバタバタとしてるだけでしたが
全体の流れもようやく分かってきた感じです。
玉泉寺の初午では、毎年お経の前に余興をやります。
今年は、住職の諏訪時代の教え子でもある
演歌歌手の宮坂寿子さんが歌を、
お檀家さんでもある黒岩春州さんが詩吟を吟じてくださいました。
30分ほどの余興のあと
東日本大震災の追悼法要、
そして今年一年の安穏を願って、護摩を焚きます。
玉泉寺には護摩堂がないので
一年に一度、護摩を焚くのはこの日だけです。
申し込まれたお札やお守り、木札を
護摩の炎でお浄めし、皆さんにお渡しします。
また、身ぶりといって
入院されていたり、遠くにいるなどして
お寺に来られない方には
ハンカチや帽子など身につけているものなどを炎でお浄めする、ということも
受け付けております。
本堂にはたくさんの人。
護摩が始まると、煙がもくもく・・・・・
護摩の火にあたりに、このときばかりは
裏方のおばちゃんたちもお台所から出て、本堂へ。
法要が終わり、住職のお話。
修行中は山やお堂にこもって護摩を焚いたり
お経を唱えたりしますが
なぜ、そんなことをするのか?
思うに、自然と一体となること。
そして動物と一体となることなのだ、といいます。
動物たちは、この自然の中で
五感をフル活動させながら自らの力で生きています。
その感覚を修行僧たちも身につけるように、
修行に励んでいるのではないかと言うのです。
先日の仏教講座で聞いた釈先生の話の中にも
同じような内容がありました。
身体知、という体の知能があり
今はそれが低下している、というものでした。
世の中が便利になると、
私たちの体も楽ができるようになります。
身近なことで言えば電気も自動で点くし、トイレも自動で流れる。
そういった研究は日々進歩し、
よく言えば便利に、
悪く言えば身体知が低下するようになってきました。
それを危惧する声はありますが、
その開発を止めることはないでしょうし
これからますます、身体知が低下する世の中となっていきます。
洗濯は洗濯機が、米炊きは炊飯器がやってくれて
当たり前すぎて今の暮らしには欠かせないものが
たくさんあります。
ただ、この山奥に住んでいて
夜になると前も見えないほど真っ暗になり、ちょっと外に出るだけでも
周りの音や気配、匂いなど
すべての感覚を研ぎ澄ませないと歩けなくて、
そんな時は、頭のてっぺんから足の裏まで
体中がアンテナになっていると感じます。
本当に、山に住むイノシシの気分です。
満月の夜や雪の夜は
それはそれは明るくて、
昔の人がどんなにその明かりを望んでいたのかが
分かるようです。
そういう感覚は、街に住んでいれば皆無。
確かに、生きるものとして
五感を研ぎ澄ませる感覚というのは
どんなに世の中が便利になろうとも
必要なのでは、と思いました。
身体知が低下するというのは
こういうことなのかとも思います。
修行するお坊さんたちは、
この感覚を身につけるべく
修行に励むのだと住職のお話があり
それがとても心に残りました。
さて、そのあとは
お投じそばの振る舞い。
薪でふかしたお赤飯やおでんなど、皆さん
思い思いに食事をなさって、
今年の初午護摩も無事に終えることができました。
毎度のことながら、
参拝してくださる皆さまもそうですが
お手伝いしてくださっている
役員さんはじめ、ご近所の方々、
最近では若い方もお手伝いに
朝早くから、来てくださって本当に本当に感謝です。
会場セッティングから
お台所関係、受付に
駐車場係と、皆さんの力あってのお祭り。
地域の力が崩れている今、
ご縁で繋がり、お寺に来てくださったり
お手伝いとして力を貸してくださったり
ご縁が続いていけるというのは本当にありがたく
嬉しいことだな、と感じます。
住職のお話にもありましたが
初午護摩供養、という縁に導かれて
参拝でも、お手伝いでも、
来られた皆さんが
「今日は来て良かった」、と思える日であるようにと願います。
改めて、今年一年が
皆さんにとって良い一年となりますように。
ありがとうございました。